イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「この地獄はいつ終わるのですか」「まあ、そんなこと言わないで。まだ始まったばかりなんですから」

 
 論点:
 「公衆は真理を語る」という公共世界の前提が、人間にとって致命的なものになるということもありうるのではないか。
 
 
 前回論じたように、公共世界における言論のやり取りは、有用性の論理をほとんど議論の余地なく妥当するものとして前提している。従って、この論理から外れる問題について公に語ることには、非常な困難が伴うことは間違いない。そういうわけで、たとえば「生きることは、苦しみでしかないのではないか」という問いを反出生主義者が公共の言論空間において提起することは、不可能とも言えるほどに難しいということにもなるのだった。
 
 
 しかし、改めて考えてみるならば、反出生主義者ならずとも、制限のきかなくなった有用性の論理が生み出す圧力から自由であるような人間は、ほとんど誰もいないとも言えるのではないか。
 
 
 情報技術の発達によって、人間は、一人一人の水平化された個人が各々の情報発信チャンネルを持つことができる時代を迎えることとなった。しかし、それと同時に進行しつつある有用性の駆り立ての激化とも相まって、各人はまさしく情報化の地獄とも呼ぶべき状況を迎えつつある。
 
 
 今や誰もが、自分がいかに有用で、コミュニケーション能力が高く、他者たちからの承認を得ているかを絶えず発信し続けなければならないという状況に陥ってしまった。元に戻すには、全世界で一斉にインターネットを遮断するくらいしか方法はないであろうが、そのような可能性は、前世紀におけるゼネラル・ストライキの夢想よりもはるかに実現性に乏しいことは自明であろう。歯車は動き始めてしまったのだ。
 
 
 
反出生主義 ゼネラル・ストライキ 承認と監視のゲーム 有用性 SNS
 
 
 
 冷静に考えてみると、人間同士で互いに承認と監視の網の目を張り巡らし、その網の目の中での立ち位置によって社会的なポジションも浮沈するという現代の状況は、精神衛生の観点から見るならば多大な負荷を各人にもたらすものでしかないことは明らかである。
 
 
 注意すべきは、果てることのないこの承認と監視のゲーム(そこでは人間本性の常として、虚飾と偽善とが際限なく横行する)が、有用性の原理によって駆り立てられたものであるという点である。すべての言動が数の原理で評価されるために、あらゆる言動が情報的・コミュニケーション的価値の面で不可視の圧迫を受け続けることになる。誰が作り出してしまったのかもわからない極度の緊張下で延々と互いの監視を続けなければならないというのは、笑えない悪夢であるとしか言いようがないであろう。
 
 
 それではいっそSNSごと全てやめてしまった方がいいのかというと、圧倒的大多数の人間がSNSに加わっている現今の状況においては、SNSから降りてしまうことは、かの平安時代における出家をも超える世捨てを意味する。今や、離島に住んでいる人さえもがSNSで一山当てようと、大自然もそっちのけでひたすらタブレットにしがみつく時代なのである。「呪われよ、SNS」と思わず苦悶と憂愁のうめきを発さずにはおれないところであるが、そう言っているそばからアプリを起動してSNSの画面を覗きこまずにはいられないというのが、われわれ現代の人間の抱える悲哀というものかもしれない。