イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

森の平和か、文明の悲惨か?   ージャック・デリダと、人間性の神秘的次元

 
 「動物は、裸であるがゆえに裸ではない。」その表現の意味とは、動物は、みずからが裸であることを知らないということでした。それでは、自分が裸であることを知っている人間のほうでは、事態はどうなっているのでしょうか?ジャック・デリダの言葉を追ってみることにしましょう。
 
 
 「衣服は人間に固有のものであることになろう、人間の「固有のもの」の数々の一つであることに。」
 
 
 服を着るのは、人間だけです。確かに、最近では、ワンワンちゃんやニャンニャンちゃんも服を着ておしゃれに気を使うこともあるようですが、ああしたことは人間の側の意志によるものであるため、ここでは置いておくことにします。
 
 
 デリダのここでの発想がとても面白いのは、「服を着る」というモメントのうちに、動物性を超える技術の次元を見てとっていることです。人間は動物とちがい、さまざまな技術をもっている。裸であるのをやめて服を着ることは、現代の科学テクノロジーにまでつながってゆくような人間の固有性に深くかかわっているということになります。
 
 
 「ゆえにわれわれは、同じ「主題」であるかのように、羞恥と技術を一緒に考えなければならない。そして悪と歴史を、そして労働を、そして、それとつながった他の多くのことどもを。」
 
 
 ここには二つの世界があります。まず一方には、動物の世界があります。この世界においては、服を着る必要もなければ、恥ずかしいという感情もありません。歴史の重みに打ちひしがれる必要もないし、なんといっても、ほとんど働く必要がなさそうです!たとえば、ジャン・ジャック・ルソーという哲学者は、文明がない状態における人間は、森のなかの木の実を毎日むしゃむしゃ食べて生活するだけだろうと想像しています……。
 
 
 他方には、人間の世界があります。ここでは、私たちは服を着て、裸であることを恥ずかしがり、歴史を進歩させようとつとめ、労働に精を出しています。そして、核実験をくり返し、ブラック企業を経営し、生活の苦しみにうめきつつ、互いに不満を抱きあいながら生きている……。ただし、コンビニやスマートフォンをはじめとして、日々の生活はとても便利です。それから、ほかの動物や人間たちを殺す手管にかけて、人間にかなうものはまったくいません!さて、この二つの世界のうち、はたしてどちらで生きたいと思うでしょうか?
 
 
 なんだか、人間であることが空しくなってくるような気がしてきます。こんなことならば、森のなかで、おいしい木の実を食べているだけの生活のほうがよかったのではないか……。しかし、次のような事情について考えてみるさいには、ひょっとすると、一部の人は違った意見を持つようになるかもしれません。
 
 
 
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 「人間だけがおのれの性器を隠すために衣服を発明したらしい。独りこのものだけが人間であるだろう、裸になれるようになることで、羞恥を知ることで、もはや裸でないがゆえに恥じらうおのれを知ることで。」
 
 
 羞恥の感情の秘密とは、恥ずかしいから隠すのではなく、隠すから恥ずかしいというものです。となると、デリダはここでは言及していませんが、人間がかりに文明を持つことをやめるとするなら、一部の人にとってはとても重要なものである、ある体験の次元も放棄しなければならないということになってきます……いうまでもなく、エロティシズムの次元です。
 
 
 性の愉楽は、動物の世界には存在しません。もちろん、彼らにも交尾の快感は存在するでしょうが、隠すこととあらわにすることの駆け引きからなるあの神秘的な領域は、あくまでも人間に固有なものです。「ほほう。あなたは、文明のことがそんなにお嫌いですか。それでは、もちろんエロティシズムもご免こうむるということですかな?」人類の文明と歴史がもつ痛ましさをけっして忘れてはならないにしても、この言葉は、とくに多くの男性陣にとっては胸の奥底に突きささるような響きをもっているかもしれません。
 
 
 森の平和か、文明の悲惨(+エロティシズム)か。もちろん、僕個人としては毅然として森の平和のほうを迷わず選びますが、遺憾なことに、世の男性たちの大半は、わざわざ悲惨のほうに全力で突っ走っていってしまうかもしれません。なぜそんなものにそこまで心惹かれるのか、僕には理解できませんが、やはり、自前のライトセーバーのせいなのでしょうか。とても不思議です。
 
 
 
 ゴヤ 裸のマハ デリダ 動物 裸 猫
 
 
 
 さて、本題に戻りましょう。デリダは、次のように結論します。
 
 
 「人間は裸であるという感覚を持つがゆえに、すなわち羞恥あるいは恥を知るがゆえに、もはやけっして裸でないことになろう。」
 
 
 人間が裸であることはけっしてない。なぜならば、人間はすでに、服を着ることで羞恥の感覚をもったからだ。デリダは裸の人間にかんして、「もはや裸ではないところで裸である」という表現を用いています。つづいてデリダは、次のように問いかけます。
 
 
 「裸の私を見つめる猫の前で、私はもはや裸であるという感覚を持たない一匹の獣として恥じているのだろうか?それとも反対に、裸であるという感覚を保持する一人の人間として恥じているのだろうか?そのとき私は誰なのか?」
 
 
 裸であるがゆえに裸でない動物と、もはや裸ではないところで裸である人間。裸を見られて恥ずかしく思うわたしは、一体そのどちらなのか?人間のうちなる動物とは?そして、動物であるとは、いかなることか……?二分法を揺るがし、人間と動物の境界を問いなおすデリダのあくなき探求が、ここから始まります。
 
 
 しかし、この探求に最後まで付き合っていると、途方もなく長い月日がかかってしまいそうです!『イデアの昼と夜』がデリダブログになってしまうことを避けるためにも、ここでは、デリダの問題圏への導入を果たしたということで満足することにして、最後に、この論点とは少し異なった論点に触れておくことにしましょう。それは、裸のわたしを見つめる猫についての考察です。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
 
 
 
[それにしても、レヴィ・ストロースといいジャック・デリダといい、現代フランスの思想家たちと猫のあいだには、何か浅からぬつながりがあるのかもしれません。もう一人の思想家、アンドレ・マルローと飼い猫のリュストレちゃんについては、すでに記事を書いたことがあります。もしよろしければ、そちらもご覧ください。]
 
 
 
 
 (Photo from Tumblr)