イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

謎としての言葉、「相手の真意」

 
 論点:
 適切な注意を向ける際には、他者の言葉は透明さには属することのない謎として立ち現れてくる。
 
 
 物事を事象そのものに即して丁寧に考えることは、哲学においては欠かすことのできない作業である。語ることと聞くこと、自己の言葉と他者の言葉の違いについて、もう少し詳しく考えてみることにしよう。
 
 
 自己の言葉、実存する人間であるところのわたし自身によって語られる言葉は、わたし自身にとって基本的には常に透明である。すなわち、わたしが発する言葉はその一語一語に至るまで、なぜそのような語を発したのか、その語にどのようなニュアンスを込めたのかを説明することが可能なのである。
 
 
 他者の言葉が、少なくとも聞いたその瞬間においてはそのようなものではないことは、言うまでもない。ごく単純な例を挙げるならば、他者が「わたしは今、体調が良くない」とわたしに対して口にするとしても、わたしには、それだけではどのようにその人の体調が悪いのか(ex.身体のどの部分が?どのくらい?)その人はなぜその言葉を発したのか(ex.単純に実感を口にしたのか?それとも、明日の予定はキャンセルしたいということを、遠回しに伝えたいのか?)といったことは分からないままなのである。表面的な意味だけを理解することと、他者の言葉を本当の意味で理解することの間には、極めて大きな違いが存在することは確かなようである。
 
 
 
 空気を読む
 
 
 
 「気配を察する」「空気を読む」といった表現は、こうした他者理解の局面において問題になってくる事柄をきわめて的確に言い当てたものであるといえる。すなわち、そこでは人間は、相手が口にした言葉の表面的な意味を超えて、相手が何を言おうとしているのか、あるいは、相手が仮に自分に対してそれを伝えようとはしていなくとも、相手の胸中にはどのような思いがあるのかを推し量ろうとするわけである。
 
 
 このような「相手の真意」は、わたしには直接に知りえないものでしかないが(他者の超絶)、その真意を知る手がかりとしてわたしに与えられているものとしては、他者の声や表情といったセンスデータに加えて、他者が口にする言葉しかないことは言うまでもない。言葉は、到達不可能にも見える「相手の真意」に達するための唯一の手がかりである。口調や表情といった要素は、決して無視してはならないものであることは確かであるとしても、こと人間に関しては、やはり言葉そのものにははるかに及ばないものであることは間違いないものと思われる。
 
 
 むろん、「表面的には別のことで怒っているように見えるけれども、実は空腹で腹を立てているにすぎない」といった場合には、必要なのは言葉を理解することよりも可及的速やかに食物を提供することであろうが、こうした事例は、人間の生のうちに否みがたく存在しつづけている動物性が前面に出てきてしまった特殊なケースであると言うべきである。兎にも角にも文明人であるということになっているわれわれとしては、言葉の理解という人間固有の行為に焦点を当てて、さらに探求を進めてゆくこととしたい。