イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

悪と反世界

 
 倫理的な観点からみて「あってはならない時空」のことを反世界と呼ぶことにすると、倫理と悪をめぐる問題の見通しが立ってきます。
 
 
 悪(他人に害を与えること)は、反世界を世界のうちに生みだします。アウシュヴィッツのようなケースにおいては、この事態が極限的なかたちで実現されてしまっているといえますが、日常生活の中での倫理法則への小さな違反などのケースも、無数のミクロな反世界が泡のように生まれでる出来事として捉えることができそうです。
 
 
 「他人に害を与えてはならない」という倫理の原則は、世界のうちに反世界が生まれるのを阻止する役割を持っていると考えることができそうです。この原則がなければ、人間の世界はただちに反世界の異常発生によって破滅してしまうことでしょう。
 
 
 しかし、たとえ倫理の原則があるにしても、この世界はたえず反世界による浸食に脅かされているといえます。
 
 
 幸いなことに、私たちの現代世界は、過去の世界に比べれば悪は明らかに減少しつつあるといえそうです。けれども、たとえば前世紀の戦争の悲惨などのことを考えてみると、どうも、楽観のみに甘んじているわけにもゆかないようです。
 
 
 
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 さて、「倫理のための倫理」というイデーは、悪のない世界を目指すことへと向かいます。
 
 
 近代という時代は、「人類が進歩してゆけば、いずれそのような世界がやってくるはずだ」と人間が信じることのできた時代でした。もちろん、話がそう簡単にゆくわけではないことは言うまでもありませんが、少なくとも人びとは、そういう可能性についてポジティヴな態度を取ることができた。
 
 
 けれども、反世界が生まれてくることをどんなに努力しても止めることができないとしたら、どうだろう。科学技術や社会の仕組みが次のフェーズに進むたびに、人類が経験する悲惨も、より大きなスケールのものになってゆくとしたら……。
 
 
 さらには、私たちにはすでになじみ深い、あのイワンの抗議については、どう考えたらよいのだろう。世界には、まったく罪を犯していないのに悲惨なしかたで死んでゆく子供が、数えきれないほどいる。「この世を見てみろ。見渡すかぎり、悪ばかりではないか。」この永遠の疑問にたいしては、私たちは一体、どう考えたらよいのでしょうか。
 
 
 悪と反世界をめぐるこうした状況について考えるとき、私たちは、倫理のための倫理というイデーが、ひとつのリミットに突き当たっているのを感じます。そして、それとともに私たちのもとに、第三のアプローチが迫ってくることになります。