イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

目標の達成?

 
 まずは、多くのひとが反出生主義者に対して抱くであろうと思われる(?)疑問を取りあげてみることにします。
 

 「存在することが害でしかないなら、あなたはなぜまだ生きているのか?」
 

 個人的な痛みを抱えている自殺志願者とは異なり、反出生主義者は、存在することは人間にとってあまねく害であると主張しています。そうであるとすれば、上のような疑問は論理の必然からして、自然に湧いてこざるをえないのではないか。
 

 そんなに存在することが苦痛であるならば、いっそ存在すること自体をやめてしまったらどうなのか。要するに、この疑問は「死んだらどうですか?」の一言に集約されますが、この一言は言うまでもなく、なかなか直接には口に出しにくいものです。
 

 なぜなら、「死んだらどうですか?」と言って本当に死なれてしまったら、もともと自己の消滅を願っていた人であるとはいえ、こんなに後味の悪いことはないからです。何気ない「死んだらどうですか?」が相手を妙に納得させて最後のジャンプを決意させてしまったとしたら、その人は後悔で夜も眠れぬ日々を過ごすことになるでしょう。
 
 
 
反出生主義 存在 自殺志願者 死 消滅 仏教 輪廻転生
 
 

 繰り返しになりますが、自殺志願者と反出生主義者は明確に異なります。もしも反出生主義者ではない誰かが自殺を考えているとすれば、ただちにその人の抱えている痛みに向き合う必要があることは言うまでもありません。
 

 その一方で、反出生主義者がこの世を去る時のことを想像すると、何か不思議な思いに捉えられずにはいないというのも事実であるように思われます。
 

 反出生主義者はもともと消滅することを願っており、もしも彼あるいは彼女が死ぬとすれば、それは最大の願望の成就にほかならないわけです。しかも、彼あるいは彼女が何か特定の悩みを抱えていたから死んだわけでもないとすれば、その死はいかなる意味において不幸であるといえるのだろうか……。
 

 たとえば、仏教においても、少なくとも多くの場合に目指されているのは、輪廻転生のサイクルを抜け出して、もはや二度とこの世に生まれてこないという地点です。
 

 この場合、存在しなくなることは喜ばしい達成以外の何ものでもないということになりそうですが……。この問題についても関心は尽きませんが、とりあえずは本来の主題である反出生主義の方に立ち戻ってみることにします。