イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

行為は語る

 
 それにしても、人類の絶滅という「公共善」を実現するためには(この点については前回の記事を参照)、反出生主義者は、果てしなく困難な道を歩むことを求められているといえるのではないだろうか。
 

 「反出生主義者は自らの目標の実現のために、人格の完成を目指さなければならない。」
 

 そもそも、人類の消滅を目標とする反出生主義者は、絶えず誤解される危険にさらされているといえます。自分では善と信じているゴールに向かって歩んでいるつもりでも、かなりの確率で、多くの人からは反社会的勢力と思われてしまうことでしょう。
 


 人間を存在するという重荷から解放しようとしているにも関わらず、解き放たれるべき当の人間たちは、生存を善と思いこんでインスタ映えする実人生を楽しんでいる始末である。死と消滅こそが至高善であるという真理(?)を伝え広めてゆくのは、このエンターテインメント全盛の時代にはなかなか難しそうです。

 

 迫害される危険すらあることを考えると、反出生主義者は、まずは思想を異にする他の人々から誠実でまともな人間として見てもらわなければなりません。自らの行いが立派であるならば、人類の絶滅という最高善の実現のためのプランに、あるいは耳を傾けてもらえる日も来るかもしれない……。
 
 
 
反出生主義 存在 善 コモン・センス バルーフ・デ・スピノザ 無神論
 
 

 そもそも、この問題は反出生主義者にかぎらず、何らかの思想を奉ずる人に共通の課題であるといえるのかもしれません。
 

 あらゆる哲学や思想には、それが根底的なものである限り、どこかコモン・センスに著しく反するようなところを持っています。善を実現するためのものである思想が、場合によっては悪や無意味としか思われないということも、稀ではありません。
 

 そうなると、その思想の「まともさ」を納得してもらうためには論理的整合性だけでは足りない。有徳の無神論者と呼ばれたバルーフ・デ・スピノザのように、生き方と人となりによっても自らの思想の「まともさ」を示してゆく必要があるのではないか……。
 

 反出生主義が「まともな思想」であるかどうかについてはここでは判断を下すことを控えますが、いずれにせよ、その「まともさ」は言葉だけではなく行動によって示さなければならないということには変わりがなさそうです。この点、イエス・キリストを人類の救い主として信じているキリスト者についても事情は同じであるため、筆者自身にもより一層の奮起が求められているといえます。