イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ヘテロス・アウトス

 
 もう一つの問題提起:
 同じ目標を持ち、人生の同じ道を歩む時にこそ、友情は最も深く、最も強固なものとなるのではないだろうか。
 
 
 もちろん、ことなった道へ進む相手とも親友になることは可能です。また、実人生においては、少し違った道を歩んでいるくらいの距離感のほうが互いにうまくいくということもあるでしょう。しかし、〈同〉こそが友情の生命であるという前掲のテーゼを思い起こすならば、やはり、最高度の友情は同じ道を志すもの同士の間に成立すると言わざるをえないのではないだろうか。
 
 
 哲学徒の場合、このことは、彼あるいは彼女は、友に哲学の道を志すもう一人の哲学徒との間にこそ最も深い友情を築きうるということを意味します。それもできるならば、その相手とは出来うる限り近い哲学観を抱く人間であるのが望ましいということにならざるをえないのではないか。
 
 
 先賢の言葉:
 「善き人にとって、友との関係は自己自身との関係に等しい。というのも、友とはもう一人の自己であるからである。」
 
 
 アリストテレスのこの言葉は、友情なるものの本質を極めて的確に言い表しています。この見方によるならば、友とは分身であり、他者という衣をまとった自分自身です。
 
 
 分身との間には、いかなる相違もあろうはずがありません。古代の友情論は、「違っているからこそいいんじゃないか」という、現代のポリティカリー・コレクトな友情観とはおよそ無関係です。この友情観は穏当なものであり、後に見るように、深い根拠を持たないものではありませんが、それでも、真の友情に求められる厳格な要求に対してあまりにも無関心であるという誹りを免れることは難しいのではあるまいか。
 
 
 
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 「異なった価値観や文化を持つ相手とも仲良くなれるはずだ」という意見には疑問を差し挟まないことにしておくのが、現代世界を生きる私たちが共有している、行儀のよい作法です。このようなマナーと、それに基づく実践を確立しておくことがグローバル時代を生きる私たちにとって不可欠であることは言うまでもないとはいえ、友情の本質が、〈異〉ではなく〈同〉にあるという事実の方までは、否定することはできません。
 
 
 友情や愛情というのは、突き詰めてゆくとどこまでも苛烈なものです。私たちは、実際の人生においては親友やパートナーとの間に存在するさまざまな相違を受け入れざるをえませんが、自分たち自身の深いところでは、完全な一致を志向しつづけています。
 
 
 完全な一致へのこの志向をあきらめて穏当な現実的妥協に甘んずるかそれとも、求め続けて他者との危機的な衝突をも恐れないかは、各人の裁量に任せられています。どちらの極端に進むとしても好ましい結果は得られなさそうですが、いずれにせよ「もう一人の自己自身」という純粋で危険な理念が、私たちにとって無関係なものになることは決してないことだけは確かです。