イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

道の成就には時間がかかる

 
 論点:
 私たちは大抵、あるものの本質を知らないままに、そのものについて、それが善いとか悪いといった判断を下している。
 
 
 たとえば、知的に鋭敏なところのある若者は、「人間なんてくだらない」といった類の人類ヘイトに陥りやすい。下手に物分かりがいいよりも、かえってこういうことを言う反抗的魂の持ち主の方が、いずれ回心して本物の哲学者への変身を遂げるかもしれないのではあるが、それはそれとして、人間の本質なるものは、そんなに簡単に知ることのできるものではなさそうである。
 
 
 前回に見たアリストテレスハイデッガーを始めとして、人間とは何かという問いについては、非常に賢く、なおかつ不屈の意志によって、生涯をかけて問いに答えようとし続けた先人たちが、それこそ無数にいる。しかも、彼らは孤独に考えていたわけではなく、彼ら自身が、彼らの先人たちと絶えず対話しながら考え続けていた。アリストテレスなんかは、すさまじい勢いで先行研究をリサーチしまくった痕跡が著作にも直接表れており、哲学史を再構成するための資料も、アリストテレスの著作がなかったらだいぶ少なくなってしまうだろうというくらいである。
 
 
 このように、本質の真理を問うというのは一朝一夕でできることではなさそうなのであって、このことを十全なしかたで果たすためには、幅広い教養と古典の徹底的な読み込みの経験を積んだ上で、さらには同時代の事象をも眺めつつ思索の経験を重ね続けるという、ほとんど超人的ともいえるような営為が必要とされるのはないかと思われるのである。
 
 
 
 アリストテレス ハイデッガー 真理 哲学
 
 
 
 論点:
 哲学の真理はおそらく、本当の意味で大人である人間にしか明かされることはないであろう。
 
 
 ひとが哲学に目覚めるのは、その人が若者の時期である場合が多いであろうが、その時期のうちには真理の探求において大きな成果を収めることができないというのは、一部の例外はなくはないとはいえ、ほぼ間違いのない普遍的な事実であろう。
 
 
 これって個々の人間がどうというよりは、もう人類共通の真理のようなものなのであって、哲学の古典も先人たちが三十代半ば以降、本格的には四十代よりもさらに後に書いたものしか残っていないというのが相場なのである。僕だけは、わたしだけは例外であると考えるのは賢明ではないであろう。ここのところは大人しく事物の本性そのものに従うというのが、哲学徒としては穏当な道なのではないかと思われる。
 
 
 話が少し本題から逸れてしまっているようであるが、実はそれほど逸れてもいなくて、本質の真理を探るというのはまことに遥かなる道であろうし、概念を操ることに終始するような、いわゆる「純粋哲学」だけを追い求めているのでは探求が成就することもないであろうというのが、今回の記事で筆者が最も強く言いたいことなのである。
 
 
 哲学の世界で何事かを達成するためには、長い年月をかけて熟成された人文的教養と、失敗と過ちはあるにせよ、兎にも角にも本気で生き抜かれた人生経験の両方が必要とされるのではないだろうか。筆者自身が「大人になりきれていない大人」という現代人の典型のような人間なので、偉そうなことはとても言えないのであるが、われわれ哲学を学ぶ人間は、本当の意味で大人であることを目指し続けねばならぬ……。