イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

歩みを振り返りつつ

 
 論点:
 たとえ偉大な先人たちであったとしても、必要と感じられた時には異なる見解を提出することを恐れてはならない。
 
 
 先人たちは偉大である。現代を生きているわれわれの見方の方が正しいと思っていても、実は先人たちの方が深いところを見抜いていたというケースは、おそらくは無数にあるのではないだろうか。しかし、である。
 
 
 過去の先人たちのすべての見解が正しいとするのならば、哲学は、膨大な量の矛盾の塊となって自壊するしかないのである。哲学を学ぶとは、何かを取って何かを捨てるということに他ならぬ。
 
 
 のみならず、場合によっては、先人たちが信念と共に進んでいった道とは全く別の道を進まねばならないこともあるかもしれぬ。
 
 
 個人的な話にはなってしまうが、ここ最近、筆者は「存在の超絶」というイデーを掘り下げようと試みてみた。このイデーは、エマニュエル・レヴィナスの「存在するとは別の仕方で」を踏まえつつも、彼とは部分的に異なる哲学観・言語観に拠って立つものである。
 
 
 しかし、おそらくは先人たるレヴィナス自身も自分の哲学に対して絶えざる自己批判を課し続けていたであろうことを考えると、自分が何か重大なところで重大な誤りを犯している可能性もあるのではないかと、一抹の不安もよぎらずにはいないのである。筆者自身の見解がこれからひっくり返ることはないとは思うのだが、叡智と練達の士であるマスター・レヴィナスの達成に対して物申すというのはやはり、いくら何でも畏れ多いのではないかという思いも禁じえないのである……。
 
 
 
 哲学 存在の超絶 エマニュエル・レヴィナス 存在するとは別の仕方で 哲学の道
 
 
 
 ともあれ、どこで先人たちの見解に従って、どこで彼らとは異なる立場を選択するかというのは、非常に悩ましい問題である。
 
 
 ただこれって、自分で意志してどの方向に進んでゆくかを決断してゆくというよりも、学んでいるうちに、自然と進むべき方向が決まってくるものなのではないかという気もする。哲学徒にできるのは、何らかの実りある土地にまで導かれるよう、天に祈り続けることくらいなのかもしれぬ。
 
 
 哲学を学び始めた最初の頃は、何がよくて何がそうでないのかもよくわからないまま、とにかく夢中でインプットし続けるものだが、そのうちに(恐らくは運命に導かれることによって)進むべき方向が一つに収斂してくるものである。
 
 
 筆者は今年で三十五歳になるのだが、ようやく、何かを作り上げようと奮闘する時期が自分にもやって来ているように感じずにはいられないのである。日々生かされていることを感謝しつつ、これからも哲学の道を弛むことなく歩み続けねばならぬ。