論点:
もしも、わたしが他者に対して善をなすとすれば、その善はわたしの死を超えて「生き残る」であろう。
哲学徒であるわれわれとしては、やはり哲学に例をとることにしたい。他の人々からは異なった意見も出るであろうが、われわれにとっては、哲学をすることはやはり、紛れもない善であろう。
ひとりの哲学徒、たとえばAとしよう、彼が真の哲学者を目指すのであるならば、彼は必須の務めとして、弟子の育成にも努めなければならない。プラトン、アウグスティヌス、あるいはフッサール先生とかの生涯を見ていると、先人たちも教育に情熱を燃やしていたことは明らかである。
Aはいつか死ぬ。Aが死ねばその時には、知恵の研鑽を積んだ哲学者が一人、この世での生を「生き終わる」ことになる。死後のことがどうなるかはともかくとして、とにかく、ひとりの人間がこの世を去ってゆくわけである。
しかし、Aが生きた証はBに、Cに、そして、彼の言葉に触れたすべての人たちのうちに残り続ける。A自身のあらゆる想像と予期を超えて、BやCを始めとする別の人々のうちで、Aにとっての「存在の超絶」においてAは生き続けるのだ。わたしを超えたところで、「わたしの民たち」が約束の地に入ってゆくというこの希望、それは、たとえわたし自身がその地に入ることを許されないとしてもやはり、わたしの死に意味を与えてくれるものなのではないだろうか。
言うなれば、このブログなんかも事情は同じなわけである。
個人的な事情にはなるが、僕自身、本物の哲学者を目指して修練の日々を送っている(「同志よ、俺が果たして本物かどうか、自分自身の心の眼で判定してくれ)。僕自身には僕自身の野望というか目標があるわけだが、まあでも、そんなものは、本当の善という観点からすれば恐らくはどうでもいいことに属するのであろう。
大切なのは、このブログを読む哲学の同志たち、そして、哲学者志望の若者たちが、このブログを通して、哲学について何ほどかのことを学び、あるいは、哲学への愛を燃え立たせることである。「学ぶ」というと、何やらめちゃくちゃ不遜な響きもあることは否定すべくもないとはいえ、ものを書いて人に読んでもらうという以上は、読んでもらう人に何をお返しできるのかを考え続けなければならないというのもまた確かなのではないか。
実際はたぶん、何かを与えるというよりも、超少数の奇特な人々に読んでもらうことでなんとか今日もこうして書き続けており、夢を追わせてくれてありがとう、僕は生まれてきてよかったようおおぉんという感じなのではあろうが、それでも最終目標としては、後進の哲学者たちに励ましと戒めを与える「師の中の師」を目指さなければならぬのではないかと思われる。かくして、レヴィナスと同様に僕も、師と弟子というテーマは哲学にとって根底的に重要なのではないかと、ここに主張しておかねばならぬ。