以前の『哲学の原罪と心の原初』で取り扱いましたが、哲学的思考は、生きている神なしでものごとを考えてゆこうとする傾向をもともと抱えています。だからこそ、不確定性の次元は、無意識のうちに見過ごされてしまいがちであるということにもなる。
したがって、私たちがこの無知の地点に立ち返るということがすでに、生きている神に向かっての第一歩でもあるということになりそうです。「わたしは自らの知を宙吊りにしたが、そのことによって、神の顔がうす暗がりのうちに静かに浮かびあがってきた」というわけです。
無知の告白は、この世を超えるものについての知へとひとを向かわせる。無知と知のあいだに結ばれるこの秘密の婚姻については、私たちは前回すでに挙げた、ニコラウス・クザーヌスという名前を忘れるわけにはゆきません。
それに何といっても、擬ディオニシオス・アレオパギテース。哲学者に臨む、輝ける闇よ。この闇のもとから、一体なんと多くの言葉が生まれでて、私たちを秘密の知の香りで酔わせることだろう。
どれだけの言葉をつくしてもあなたの御元にはけっして近づけず、あなたは、近寄りがたく冥い光のうちに住んでおられる。あなたを限りなくたたえます、わたしの神よ。
僕は正直に言って、中世ヨーロッパの哲学者たちのことが、少なからずうらやましい。僕も何とかしてその時代に生まれて、迷わず哲学者か神学者になって、神にたいするひそやかなラブレターを書きつづけていたかったところでした。
この現代においては、もちろんそう言うわけにもゆきません。「神が存在する」と主張するだけで、その人はもう、この世の寄留者になってしまいます。
けれども、ひょっとすると、そのことがかえってよいものをもたらすこともあるのではないか。
今の時代には、神について深く考えぬいたとしても、その人は自分のことを知者だといっておごり高ぶることができません。それは言うまでもなく、神が存在しないという可能性も、理性のみによっては人間には否定することができないからです。
神が、自らを知ろうとするものが高ぶることを許さず、ただ純粋に神のことを知ろうとする者だけが自らのもとに近づくことができるようにしたとしたら。
神が知恵を「愚かな知恵」としてのみ人間に許したのだとすれば、神は本当に偉大です。もうだいぶ長くなってしまったので、このあたりで告白を終わりにさせていただくことにします。