イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

名前の正しさをめぐる議論

 
 重要な論点なので、ここは丁寧に論じておくこととしたい。
 
 
 論点:
 哲学とは、存在を言語によってそのあるがままに言い表そうとする、終わることのない営みである。
 
 
 レヴィナスのような哲学者であれば、上のような哲学の定義に対しては強く反対することであろう。彼にとっては、「存在」ではなく「存在の彼方」について語り続け、考え続けることこそが哲学の使命であり、理性(ロゴス)の務めだからだ。
 
 
 これに対して筆者が主張したい立場とは、次のようなものである。
 
 
 「存在の超絶」を思惟するための予備考察: 
 もしも存在の彼方なるものが存在するとしても、それはやはり何らかの意味で「存在する」のでなければならない。
 
 
 今の場合、筆者とレヴィナスとで、言い表したい事態が異なるわけではない。それはすなわち、他者の超越であり、このモメントを前にして立ち止まり、それを言葉にもたらそうとした先人として、レヴィナスの功績は限りなく大きいと言わねばならない。
 
 
 しかし、筆者とレヴィナスとでは、事態は同じでも、それを語ろうとする言葉において、見解が異なるのである。すなわち、他者の超越について語るのに、「存在する」という語はふさわしいかどうか。否と答えるのがレヴィナスであり、彼の哲学の達成を踏まえた上で、哲学にはやはりなお然りと答える必然性があるのではないかというのが、ここでの筆者の主張なのである。 
 
 
 
 哲学 レヴィナス 存在の超絶 擬ディオニシオス・アレオパギテース トマス・アクィナス 存在の類比
 
 
 
 「物事は、それにふさわしい名前で呼ばなければならない。」今の論点に関して中世哲学の文脈を想起するならば、くり返しにはなってしまうが、擬ディオニシオス・アレオパギテースのいわゆる「否定の道」に対するトマス・アクィナスの「存在の類比」による密やかな応答は、神という「存在者の中の存在者」をめぐる正しい言葉遣いをめぐって展開されていたのであった(cf.しかし、このように言い表すならばただちに「神を『存在者』と呼ぶのは、神にとってふさわしいことであるか?」という問いがただちに提起されてしまうあたり、探求は果てしのないものであると言わざるをえない)。
 
 
 訳の分からない言葉の上での議論に延々と熱を上げているというのは、哲学に対する悪しきイメージとしては非常に古典的なものであり、おそらくは哲学の歴史と同じくらいに古いものであろう。
 
 
 しかし、こと畏れるべきもの、そうであるにも関わらず見過ごしてしまいかねないものについては特に、正しい言葉遣いなるものに哲学がこだわなければならない必然性もあるのではなかろうか。この点からすると「他者について語るために『存在』という語はふさわしいか」という問いにもそれを問うだけの必然性があるのではないかと思われるので、もう少しこの問いに粘り続けてみることとしたい。