イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

いわゆる哲学的ゾンビについて

 
 存在の超絶:
 他者の意識は、あらゆる論証や証明の不在にも関わらず、厳として存在する。
 
 
 他者であるあなたの意識は、わたしには直接に知りえない。したがって、あなたの意識なるものが存在するかどうかも、厳密に言えばわたしには決してわからないのである。
 
 
 あなたはわたしをまなざし、わたしに語りかけ、触れさえもする。しかし、そのあなたが実は(文字通り)心を持たない「生ける屍」でないかどうかは、わたしには本当は確定することができないのである。いわゆる哲学的ゾンビのような概念が、実践的には恣意的かつ無用のものに見えるとはいえ、理論的には無視しがたいものである理由もここにある。
 
 
 「あなたは哲学的ゾンビ、すなわち、感じられる質であるクオリアを持たない生ける屍ではない」は、わたしには証明することの不可能な命題なのである。
 
 
 逆に言えば、わたしが誰かから「あなたは、哲学的ゾンビなのではないか」と問われたとしても、わたしには、無力であるとはいえ「わたしはゾンビではない!」と主張し続けるしかないわけである。このように主張したとしても、相手にはひょっとしたら「『わたしは哲学的ゾンビではない』と熱心に主張しまくっている哲学的ゾンビ」にしか見えない可能性も否定できないが。補足的な論点ではあるが、わたしが他者に対して自分がゾンビではないことを証明することも、厳密には不可能なわけである。
 
 
 
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 たとえば、今このブログの記事を書いているphlio1985という人間は、自分がコギト、すなわち考える意識であるという「事実」を確信している。少なくとも筆者にとっては、「わたしは存在する」という命題は絶対確実に真である(意識の与え)。
 
 
 しかし、このブログの記事を読んでいる読者にとってはそうではない。読者には、筆者が「日々考えながら、マニアックな哲学ブログを書き続けているかのように見える哲学的ゾンビ」ではないかどうかを理論的には確定することができない。哲学的ゾンビについて書く哲学的ゾンビというのも、泥棒が警察をやっているようで妙ではあるが、とにかく事情はそうなっているのである。
 
 
 哲学的ゾンビの概念は、現実的にはほとんど無用の代物であることは言うまでもない。誰も、こんな突拍子もない想定を本気で主張する人間は存在しないであろうし、その点はもちろん筆者も同様である(注:ただし、そのように言う人間が「哲学的ゾンビが存在するという『不都合な真実』を隠蔽しようとしている哲学的ゾンビ」であるという可能性は、少なくとも理論的には残る)。
 
 
 しかし、現実のこの世界が、あるいはわたしのこの生が、すべての他者が実は哲学的ゾンビであったとしても何も変わりがないかのように営まれているという哲学的事実は、まことに注目に値するものなのではあるまいか。存在の超絶というイデーをより深く掘り下げるための補助線として、この事実に今しばらくの間注意を払ってみることにしたいのである。