イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「もしも誰に何を聞いたとしても、何も得られないとすれば……。」

 
 論点:
 他者が真理を語るという可能性は、人間にとって、本当は命そのものにも等しい意味を持つのではないだろうか。
 
 
 たとえば今、生きていることの意味がわからなくなってしまい、心を病んでいる人がいるとする。その人にとっては、自分自身が生物学的に生きているということはほとんど意味をなさず、自分はただ死んでいないだけで、生きてはいないと感じられているとしよう。
 
 
 その人は当然、自ら命を絶つことも考える。しかし、その人はおそらく、すぐにその自殺を実行に移すことはないだろう。その人はその前に、自分の知っている限りの手段を尽くして、自分が死なないでも済む方法を聞いて回るかもしれない。
 
 
 その人が求めているのは、自分自身を生きることのうちへとつなぎとめる言葉である。その人はそれを、自分ではない誰か別の人から聞くことができるのではないかと期待する。というよりも、自分自身の内側からは死の言葉しかもはや出てこないからこそ、生きることへと向かわせてくれる言葉は、自己を超絶する他者に求めざるをえないのである。
 
 
 自身が意識しているかどうかは別にして、その人にとっては、他者が真理を語るという可能性は、自分自身の命を左右するほどに重大な問題である。この可能性を信じることができる限りは、その人は病みながら、あるいは絶望しながらも、他者の言葉に耳を傾け続けることをやめないだろう。しかし、期待が裏切られ続けてきたと感じ、この可能性を信じることがついにできなくなった時には、その人との間の距離は、ほとんど存在しないところにまで近づいてしまうのではないだろうか。
 
 
 
超絶 実存 他者 反出生主義
 
 
 
 もしも偽善や気休めを越えて、生きることには意味が語る人間がこの世に誰一人存在しないと思うならば、その人にとって、世界は本当に意味のない場所になり果ててしまうだろう。その時には、「人間はすべからく生まれてくるべきではない」という反出生主義の思想が、その人には限りなくリアルなものとして感じられるようになるに違いない。
 
 
 他者が真理を語るとは、自分自身の世界が覆されることである。自己を超絶する他者の言葉が意味を持ち、その意味が、自分自身の知っている意味を超えて超絶的な意味を意味し、認識の主体であるわたしが新しく生まれ直す。この出来事の痕跡はすぐに消えてしまい、「他者の言葉」は時をおかずに「わたしの言葉」となって、その異他性も衝撃も忘れられていってしまう傾向を避けがたく持つとしても、超絶的な意味によって生まれ直すという可能性自体は、主体の実存の可能性としては、決して消えることがないのである。
 
 
 わたしが一人の実存する人間として生きているというその事実は、本当は、他者が真理を語ることを信じるというその信によって支えられているのではないか。この信が完全に消滅する時には、人間が自殺することへと向かうのを止めるものは、ほとんど何もなくなってしまう可能性さえある。この意味からすると、信じることをめぐる実存論的分析において賭けられているものは、ほとんど人間の命あるいは実存そのものであると言えるのかもしれない。