先に進みましょう。
「デスノート使用者は、人類の全体と少なくとも暫定的には対立する。」
主観的には暴虐と悲惨のない世界へ向けて邁進するデスノート使用者ですが、他の人々は、少なくとも最初のあいだは彼を単なる大量殺人犯とみなすことでしょう。
したがって、彼はこれらの「無知蒙昧な連中」の意向を無視して改革に乗り出す必要があります。一方、他の人々から見れば、彼はまさしく「人類の敵」以外の何物でもないということになってこざるをえません。
しかし、デスノート使用者にとっては、この敵対状態はあくまでも暫定的なものにすぎません。
「悪人」たちが次々と裁かれてゆくことによって、犯罪に手を染める人間の数は減少の方向へ向かってゆくことが予想されます。そうなれば、初めのうちは激烈な非難の的であったデスノート使用者も、着実に賛同者と追従者の数を増してゆくのではないか……。
「人間を一人殺せば殺人犯、半分殺せば英雄、全員殺せば神である。」
このことばが正しいかどうかはいうまでもなく疑問の余地のあるものですが(とりわけ、信仰者の立場からは眉をひそめざるをえないであろう)、デスノート使用者が従うのは、間違いなくこの言葉のうちに体現されるロジックに他なりません。個々のケースにおける倫理法則の適用の妥当性ではなく、数こそが行為を神聖なものとするのだ、というわけです。
もちろん、人間が最終的に目指すべきであるのは暴虐と悲惨のない、平和な世界である。
しかし、現状においては、数を神聖なものとするほどに決然とした「制裁」を行うことのできる力は、この地上には登場していない。結局のところ、人間が必要としているのはこの力に他ならないのであって、もしもこの力が現実のものとして「行うべきこと」を行うのならば、人々は最後には歓喜の声をもってこの力を迎え入れることだろう……。
剥き出しの力によって世界を道徳的に是正するというこの逆説が、デスノートの使用という状況においては最大限に高まります。「殺人者を殺せ Murder the murderer」という論理は、つまるところ現実の力のみをその究極の根拠としているという論点は、哲学的にみて注目すべきものであるように思われます。