「本当に危険すぎることは、裏アカウントにすら書かれない。」
裏アカウントなるものの登場によって、慎ましさを美徳としていたこの国にも、ついに憧れの(?)本音丸出しワールドが部分的に到来しつつあることは確かですが、それでもこの世のすべてが語られているわけではないということには、どこかで念頭に置いておく必要がありそうです。
ドス黒すぎる、恥ずかしすぎる、さらには、もはや司法上の処置を取られずには済まされないといった類の発言は、裏アカウントにすら書かれえないか、もし書かれたとしても通報されるでしょう。
通報となると、これはもう哲学というよりは、むしろ警察の管轄に属します。ミシェル・フーコーばりに、あえてその方向に哲学的探究の領域を広げることもできなくはなさそうですが、筆者自身はそんな勇気のない極度の不安症者であるため、その仕事は刑法と未来の哲学者に委ねます。
さて、一般人の方に話を戻すと、私たち一般人のそれぞれにも当然、裏アカウントにも書けないことは存在すると思われます。
誰だって、叩けばホコリくらいは出る。というかぶっちゃけ、僕なんてホコリしか出ないくらいだ。
だから、僕は本当は君がどんなことを隠しているのかも聞かないよ。僕に対するものすんごくえげつない悪口を心の中で叫んでるとしても、裏アカにさえ書かなければそれでも構わない。僕のこと嫌いでもいいから、どうかそのことを僕が知らないようにしておくれね……。
ここには、理論的にいって二つの可能性が存在します。
他者認識への態度に対する二択
1. 裏アカウントにすら書かれていないことは、知らなくてもいい。
2.裏アカウントに書かれていないことでも、とにかく知りたい。
筆者自身としては、この二択については個人的には1を選択したい。おそらく、人間の真実というものはどんな場合でも想像をはるかに超えているので、隠されていた真実を知るにしても、裏アカウントに載せられるくらいのレヴェルが適当ではないかと思われるからです。
もちろん、それでは真理の探求者として不徹底である、哲学者ならば有無をいわず2を選択すべきだという意見もありうるでしょう。ただし筆者としては、自分自身がメンタルを病んで対人恐怖症になってしまっては、その際に必要なのはもはや哲学ではなく入院であろうという論拠をもって、1の立場を保ち続けたいところです。
本アカ/裏アカの弁証法に入りえない危険な真実は、哲学者の自我を崩壊させかねない弁証法の外部です。「この世には、知らないほうがよい真実もあるのではないか」という問いは、哲学的にみると非常に興味深いものであるといえます。