イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

リアルな人間として生き始めること:「世界内存在」の概念をめぐって

 
 前回の記事で取り上げた一節をもう一度引用しつつ、そこに含まれている「世界内存在を確実なものとする」という表現について、掘り下げて考えてみることにしたい。
 
 
 「死を真とみなして保持することー死はそのつどじぶんに固有な死であるーは、世界内部的に出会われる存在者や、形式的な諸対象にかんするあらゆる確実性とはべつのありかたを示し、またそうした確実性よりも根源的なものである。なぜならそれは、世界内存在を確実なものとするからだ。」(『存在と時間』第53節より)
 
 
 すでに見たように、日常性における人間の「死へと関わる存在」は、死について考えるのを「それとなく避けること」によって特徴づけられていた。〈ひと〉は確かに、「人間は誰でもいつか死ぬものだ」という事実を否定することはないけれども、「他の誰でもない一人の人間であるわたし自身が、いつの日か確実に死ぬ」という事実のことは考えないようにしている。〈ひと〉は、死のことが思い浮かぶたびに「当分はまだ死なない」というロジックを働かせることによって、いわば自らを偽っているのであると言えるのかもしれない。
 
 
 「死への先駆」は「死へと関わる本来的な存在」のうちに身を置き入れつつ、この「自己に対する偽り」から決定的な仕方で身を引き離す。すなわち、現存在であるところのわたしはもはや、自分自身のありのままの姿から目を逸らすことなく、自らに与えられたただ一度限りの生を、まさしく「ただ一度限りのものとして」受け止め、本来的な仕方で実存し始めるのである。
 
 
 このように見てみると、死を真なものとして保持することがなぜ「世界内存在を確実なものとする」ことに他ならないとハイデッガーが言うのか、その事情も深く納得されてくる。「世界内存在を確実なものとする」とは、真実な仕方で世界のうちで存在し始めることを意味するのである。「世界内存在」の概念は、人間存在が単なる理論的な主観でも、宙に浮いた意識でもないような仕方で世界のうちに「現実に」存在していることを示唆しているのだが、日常性における人間は、この「現実に存在していること」の現実性を偽って、自分自身がいつまでも死なないかのように振る舞っている。「死への先駆」はこの偽りを振り捨てて、「わたしはいつの日か必ず死ぬという運命のうちに投げ込まれているがゆえに、死に追いつかれる前に、『本来的なわたし自身』への道のりを歩み始めなければならない」のうちへと決意して自らを投げ入れつつ、本来的な仕方で実存し始める。
 
 
 
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 この議論のうちで問題となっているのは、「リアルなもの」と「フェイクなもの」の対立と相克に他ならないと言えるのではないだろうか。
 
 
 『パイドロス』においてプラトンが語っていたことを、思い返してみる。彼によれば、哲学が追い求めるべきは「真実そのもの」なのであって、「真実らしく見えるもの」ではない。偽りの弁論術を教えようとする教師たちは、「〈ひと〉を説得するのには『真実そのもの』を知っている必要などなく、ただ『真実らしく見えるもの』が何かを知っていさえすれば、それでよい」と公言している。確かに、多数のものたちが惹きつけられてゆくのは、苛烈にして妥協することのない探求を必要とする「真実そのもの」ではなく、「真実らしく見えるもの」の方なのであってみれば、哲学の世界においてもフェイクなものが力を振るうのは、もっともなことであろう。しかしながら、もしも私たちが真正な仕方で言葉を語ることのできる人間になることを望むならば、やはり「真実そのもの」という稀にして困難なものを他のいかなるものにもまして追い求めないわけにはゆかないであろうと、プラトンは言うのである。
 
 
 哲学の務めの一つとは、自己への偽りから絶えず身を引き離そうと試み続けること、そのことのうちで、「真実な仕方で生きる」というこの上なく困難な鍛錬を自らに課し続けることに他ならない。この観点からするならば、「世界内存在を確実なものとする」とは、自らの世界内存在をそのあるがままの姿において掴み取ることを、すなわち、言葉の本当の意味において「リアルな人間」として生き始めることをこそ意味しているのではないだろうか。自分自身の戯画に、自己に対する偽りの氾濫に取り憑かれ続けるというのが、哲学の抱えている永遠の運命でもあるというのは否定しがたい。しかしながら、フェイクなものはいずれ消え去って、紛れもない本物だけが残ってゆくというのが動かすことのできない歴史の法則であるというのもまた、確かなようである。私たちとしては、以上をもって「世界内存在を確実なものとする」という表現については必要な注釈を終えたということにして、「死への先駆」の概念を仕上げる作業に引き続き取りかかることとしたい。
 
 
 
 
[今日と土曜の二回の記事では、『存在と時間』の「死への先駆」に関する議論をたどりつつ、「リアルであること」というテーマを掘り下げてみたいと考えています。11月頃からの四ヶ月間ほどでブログやTwitterに関わってくださる方は増え続けていますが、筆者自身は日々、迷いのうちにあります。というのも、ここ四ヶ月は、自分自身のうちでは「これを言ってしまったら、もう誰もついてきてくれないのではないか」というメッセージを発し続けることの連続だったからです(もっとも、これは筆者自身に限ったことではなく、「実存の本来性」という主題に関して何ごとかを語ろうとする人間が背負わなければならない宿命なのかもしれません)。ただ、この期間を経て、ただ「リアルであること」を追求し続けることだけが、自分のなすべきことなのかもしれないという確信は固まりつつあります。関わってくださる方には本当に感謝というほかありませんが、筆者も哲学の一つの時代を作るという遠い目標に向けて引き続き全力を尽くしますので、気の向いた時にでも覗いていただければ幸いです。ブログを読んでくださっている方の哲学探求が、実り豊かなものでありますように……!]