イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「君がいま学んでいることが、いつの日か……。」

 
 論点:
 真理は、人間の生を善へと導くことができるはずである。
 
 
 この点についてだけは、筆者は以前よりも確信が深まってきているのである。まあ、その確信なるものも実はたんなる妄想でしかなかったという可能性もなくはないのではあるが、それでも哲学が人間を善へと導くということについては、意見がブレなくなってきているのである。
 
 
 ただしこの点、筆者は信仰者として、哲学といっても「キリスト教哲学」という限定は付けておく必要がありそうである(ただし、この限定辞に関しては根底的かつ徹底的な検討が必要であることも言うまでもない)。このブログは、「キリスト教哲学どころか、哲学すらも絶滅したかと思われている時代にラストサムライとして形而上学人間学を追求し続ける真の哲学ブログ」を目指しているのではあるが、事によると「なんか、かわいそうな人が『俺には哲学しかねえ』とか叫びまくりながらSWについてしゃべりまくってる残念な日記帳」と思われる向きもあるかもしれぬ。
 
 
 しかし、そのような低評価よりもさらに悲惨かつリアルなのは、別によいとも悪いとも思われておらず、ただ筆者だけが黙々と完全な真空状態の中で永遠に一人で果てることなくしゃべり続けているだけという恐ろしい可能性である(cf.サミュエル・ベケット『名づけえぬもの』)。そう考え始めると、ほんと鬱である。ぶっちゃけて言うと、僕は最近、やっぱ大学やめなきゃよかったかなって思うことが結構多くなっているのであるよ。ぐすん……。
 
 
 
真理 キリスト教哲学 形而上学 人間学 ラストサムライ サミュエル・ベケット 名づけえぬもの 言表行為
 
 
 
 しかし、本題に戻ろう。繰り返しにはなるけど、哲学なる営みが人間をよいものにするということについては、幸いなことに、筆者にも確信が深まってきてはいるのである。
 
 
 若者よ。これが仮に、この世で勝ちまくってる売れっ子の若手哲学者(そんな奴がいるとしてだが)が同じことを言ってるなら、そいつの言ってることは信用できんぞ。いや、これは負け惜しみで言ってるんじゃない。言表行為と言表の真理との関係について、ごく当たり前のことを言ってるだけなのだ。うるうる……。
 
 
 わからんね。僕はひょっとしたら十年後も二十年後も、ここでこうして若者よ、君は哲学を学ぶのだと一人で息巻いてるだけかもしれぬ。だけど、なんか不思議なことに、それが僕に天から与えられた運命なのではないかという気もするのだ。
 
 
 僕は僕なりのやり方で、哲学に貢献せねばならないのである。若者よ、君にはきっと、君にしかできないやり方で、哲学を学ぶことによって人の役に立つ運命が与えられているはずなのである。世の中で目立つか目立たないかは関係ない。君が毎日本を読んでいることも、論文に目を通したり難解な原著の前でうなっていることも、きっといつか、誰かのために役に立つはずなのだ。
 
 
 将来、生きることに意味なんてないと絶望している別の若者が、君が書いたものを読んで人生が変わるなんてこともないとは限らないのだ。哲学は、人間に本当の命を与えずにはいない営みである。僕も倦まずたゆまず、日々ここでひっそりと、気合を入れて語り続けねばならぬ。