イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「我もいつかは……。」

 
 論点(再提示):
 師は、弟子よりも先に死ななければならない。
 
 
 おそらく、哲学の道を歩んでいる者にとっては、著作をまとめるというのはやらねばならぬと同時に、できるならば避けたい仕事であろう。
 
 
 探求とか勉強って、やればやるほど深まってゆくわけで、まだ十分に深められていないうちから書くというのはやらないに越したことはないというのは、多くの哲学徒が感じていることに違いない。実際、ハイデッガー先生なんかも行きがかり上書かなくちゃいけないみたいな状況になるまでは、『存在と時間』を書こうとはしなかったらしい。同じような例は、そこそ哲学史の上でいくらでも挙げることができるであろう。
 
 
 筆者個人の例でいえば、筆者も哲学について正面から書くというのは、やりたいようなやりたくないような、非常に複雑な気持ちなのである。昨年の初めくらいからは、このままだとマジで人生なんにもなんないから、せめて自分のためだけにでもということで真剣勝負には入り始めたけど、実際に書きながら自分の学びの成果をまとめてゆくというのは、何やら不安を誘う作業ではあることは間違いない。
 
 
 だからこそ、先人の著作というのは求道者にとって、大きな道しるべとなるものなのである。
 
 
 先人たちもわれわれと同じように、  まず間違いなく「できれば書きたくはなかった人たち」である。しかし、たとえばレヴィナスも「書かなくては何にもなんないから、書くしかないんだうおおおぉ」と『全体性と無限』に命を燃やし、次いで、この本が世間からほぼ無反応で迎えられて「なんでだようおおおぉ」と煩悶していたに違いないのである(実際に、先生もその時はヤケになって原稿を屑かごに捨てたとか、捨てないとか)。現在われわれが古典中の古典と仰いでいる名著たちもみな、そのような悶絶と七転八倒の末に生まれたものであることは、記憶にとどめておいてよいであろう。
 
 
 
哲学 ハイデッガー 存在と時間 全体性と無限 古典 七転八倒 レヴィナス デカルト ドゥルーズ ジャック・ラカン
 
 
 
 先人って、ほんとに大きな存在なのである。僕も昔はどちらかというと、単なる著者として読んでいる側面も大きかったけど、最近ではますます、お手本にすべき生きた先輩として読むようになっている。たとえば、レヴィナス先生の『全体性と無限』にしても、参考文献の持ち出し方とかそこでデカルト持ってくるかとか、先生自身の書いた時の気持ちが、昔よりはずっとわかるようになっていることだけは確かである。
 
 
 いや、これだけでも哲学を勉強しててよかったですよ。ドゥルーズ先生とかジャック・ラカンとか、十五年前は一体どういうところから彼らみたいな発想が出てくるのか、全くわからなかったもの。今でも、彼らの本を読んでるとやっぱり「先人はすげえな(cf.同志よ、われらの世代はやはり、フランスのあの輝ける世代への尊敬は死ぬまで消えんだろうね)」とはなるけど、だんだん、ああ、この人はこれとあれを大事にして、この時期はこういうことを考えてああいうものを書いたんだろうなみたいに思うようになってきている。
 
 
 彼らは、われわれよりも先に死んでいる。哲学徒からは賢者として尊敬されている彼らも、最初は僕たちと同じ「レジェンダリーな先人たちに憧れながら『いつかは俺も……』と密かに闘志を燃やしていた人たち」だったわけである。若者よ、毎回のことですまんが、俺もこれからの人生で、哲学で勝負し続けて本物になる。その時には、君ももう一度この中途半端な独白を読み直して、「この人だって昔はこうだったんだから、いつかは俺も……」と思って、大いに闘志を燃やしてほしい。いつもつまらんことばっかり言っててごめん、俺もがんばるよ。