イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

人間は有罪か

 
 今もまだ成熟したわけではないけど、恥ずかしき若かりし日々のことを思い出すとき、福音はわが魂のうちで、ますます強く大きく響いてくるのである。
 

 福音の核心(前出のものより一部抜粋)
 「イエス・キリストが、私たちの罪のために十字架にかかり……」
 

 神学的に言うならば、恥と罪のあいだにある差異に目をつぶるわけにはゆくまい。しかし、この二つのものが極めて密接につながっていることは確かである。そして、自分の若かりし日々を思い出す時にはそのたびに赤面せずにはいられないということからも、僕が罪人であることは否定すべくもないのである。
 

 昔、おばさんは僕によく、「若いころの私は馬鹿だった」と言っていた。その時は、そういう風に感じる人もいるものなのかなと思ってたくらいだったけど、今はめちゃくちゃよくわかる。今、昔の自分ともしも会うことがあるとすれば、僕はあまりの恥ずかしさに爆死せずにはいられないであろう。
 

 正直な話、具体的にどう恥ずかしかったのかは、このブログにも詳しく書く勇気はまだ出てこないのである。アウグスティヌス先生とかは『告白』でその辺をあますところなくぶちまけていて、その勇気には驚嘆せざるをえない。僕としてはただこうして、告白してるんだかしてないんだかよくわからないつぶやきを延々と続けるのが関の山といったところである……。
 
 
 
福音 イエス・キリスト 十字架 神学 アウグスティヌス 告白
 
 
 
 それはともかく、キリストが人間の罪のために死んだという部分は、福音にとって欠かすことのできない重要なものである。
 

 聖書によれば、すべての人間は、そのままで生きていても大丈夫というのとはほど遠いところにいる。もう、めっちゃヤバいをはるかに通り越して、いやもうこのままだと滅びますよマジヤバいっすよというくらいのレベルで罪があると、この本は僕たちに語っているのである。
 

 僕は思う。他の人のことはわからぬ。いや、知的に誠実に考えるならば、おそらくは他の人たちも多かれ少なかれ罪人なのではあろうと思うのだが、そんなこと僕の言えたことではないのである。まず何よりも、自分自身がこれまでの生き方を悔い改めねばならぬ。
 

 しかし、こうして人の目にさらしつつ書いているということは、この罪なるものからの赦しを自分で納得するだけじゃなくて他の人にも伝えたいということをも意味する。現にこうして書いてる以上、そこを否定してはいけない気がするのである。
 

 というわけで、僕は伝えたい。多分、じっくり考えれば誰もがどこかで罪人ではあると思うから、それを認めるのって大事なんじゃないかなー、みたいな……。いや、やっぱりこれって、表現のしかたが大変に難しい。人間に罪があるっていうのは、まさしく自分にまっすぐはね返ってくるところではあるから、非常に中途半端に口ごもるという感じになってしまわざるをえないのである。