イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

神は愛なり

 
 自分の進むべき方向に迷った時には、常に原点に立ち戻る必要があるのではなかろうか。
 

 「神は愛です。」(『ヨハネの手紙 一』第4章16節)
 

 愛は大事です、ではない。神は愛です、である。これこそは、イエス・キリストの福音の核にして心臓部である。
 

 人間にとって、神から愛されているという以上の幸福はあるまい。これこそが救いであり、これこそがよき知らせである。キリスト者は、「あなたは神に愛されている」という伝言を世に伝えなければならぬのである。
 

 誰からの伝言であるか。神である。他でもない神が私たちに、わたしの救いを全世界に宣べ伝えよと命じておられるのである。
 

 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(『マルコによる福音書』第16章15節)
 

 いわゆる、大宣教命令である。ぶっちゃけ、今のこの時代にこの大宣教命令をガチで受け止めているクリスチャンの数がめちゃくちゃに少ないことは否定できぬ。
 

 だが、そのことはこの命令が切実であることを全く妨げないのである。たとえアクセスがゼロになろうとも、俺は最後まで全力で叫び続けなければならぬ。神は愛なり、主は救いなり、と……。
 
 
 
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 すがすがしいよ。なんてすがすがしい気分なんだ。ぶっちゃけ、しばらくしたら後悔し始めそうな気がしなくもないとはいえ、人間、突っ走るときは突っ走るしかないようにも思われるのである。賽は投げられたのだ。
 

 もういいのだ。俺は、人生の真理を求めてやまないたった一人の誰かに向かって、救いを求めてやまない誰かに向かって書くのだ。いやごめん、やっぱり僕を見捨てないでくれ。さびしいんだ。一人は辛いんだ。
 

 わからぬ。荒野で叫ぶとは、こういうことなのであろうか。誰もいない。見渡す限り、ここは誰もいない荒地だ。この無人の地から俺は叫ぶ。神は愛なり、主は救いなり、と。誰かが聞いているのだろうか。それとも、誰もいないのか。
 

 しかし、そこに耳があるかどうかには関わらず、このことは真実である。すなわち、死の影の谷間に、すでに光は射した。キリストの到来とともに、新しい時代は始まっている。神は愛なり、主は救いなり。とてつもなくマッドな方向に進んでいる気もするが、とりあえず、今日はこの辺ですでに字数も尽きたのである。