イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

後半戦の開始

 
 そろそろソフトな反フィクション論を離れて、ハードな反フィクション論の方の検討に移ることにします。
 
 
 ハードな反フィクション論……およそ、ありとあらゆるフィクションの存在を批判する。
 
 
 この論に対してフィクションの「弁明」を行うとすれば、その後の論旨の展開にはさまざまな可能性があるにせよ、とりあえずは次のように主張するほかないと思われます。
 
 
 ハードな反フィクション論に対する反対論:
 フィクションは、何らかの点で人間に対して有益な役割を果たしている。
 
 
 ハードな反フィクション論は、一部の「問題のある作品」のみならず、およそフィクションなるものは、そのすべてが人間にとって益よりも害のほうが多いと主張しています。したがって、この主張に対してフィクションの価値を擁護しようと思うならば、フィクションは人間存在にとって有益かつ必要なものであることを、何らかの論拠とともに主張することが求められるわけです。
 
 
 無論、ハードな反フィクション論者がいかに熱心にフィクションの「有害性」を訴えたとしても、ほぼ間違いなく世間的には何も変わることなしに、新刊のラノベは出版され続け、ハリウッドはマーベルの新作を公開し続け、小学生は教室で自作のマンガを描き続けることでしょう。「およそあらゆるフィクションは、原理的に言って悪なのではないか」と問うことは、少なくとも目下のところは、哲学者の間での議論としてのみ意味があることであると言わざるをえません。
 
 
 しかし、自分の人生のうだつが永遠に上がらないことに対するますます深い諦念の境地に達しつつある筆者としては、今さら哲学の探求がマニアックなものになりすぎることを恐れる必要もなさそうです。一切の妥協には別れを告げつつ、反フィクション論の深みへと突き進んでゆくことにします。
 
 
 
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 友よ、聞いてくれ。俺は絶望した。しつこいかもしらんが、たとえ何を書いたとしても、アクセスが来なければ本というものは出ないことを、俺は知ったのだ。もういい。俺はこれから哲学者としては、マジで哲学の完成のみを求めて生きる。
 
 
 思えばブログを始めてからのここ四年間、哲学をやりたいのか本とか出してブイブイ言わせたいのか、いまいちはっきりしない俺自身であった。いや、今だっておそらく俺は、完全には諦めきれていない。何かの具合で本とかワンチャン出るんじゃねって思っていないかといえば、おそらく3%くらいは思っているのではあろう。
 
 
 だが俺よ、もういいではないか。お前の進むべき道は哲学だ。世の中でお前の哲学が認められんというなら、せめてお前は、お前自身の中では揺るがぬものを打ち立ててみせろ。お前のような半端者がなぜここで永久にうだつの上がらんものを書き続けているのか、俺に納得させてみせろ……。
 
 
 そういうわけで、このブログも遺憾なことながら、今や「俺の俺による俺のための哲学ブログ」という禁断の方向に向かいつつあるように思われます。諸々の見苦しさにはお詫びを申しあげるほかありませんが、これからも、お時間のある時にでもご覧いただければこれ以上の感謝はありません(「哲学の道をゆく若者よ、言っておくが、お前の求めているレジェンドは、ここ以外では見られんぜ」)。