イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

気晴らしあれこれ

 
 前回に引き続き、反対論の検討から考察を始めてみることにしましょう。
 
 
 ハードな反フィクション論に対する反対論:
 フィクションは、何らかの点で人間に対して有益な役割を果たしている。
 
 
 まず最初に思いつくのは、フィクションは人間にとって、気晴らしとして役立つのではないかということです。
 
 
 フィクションの有益性①:
 フィクションは人間にとって、気晴らしとしての価値を持つ。
 
 
 この点については、おそらくほとんど説明を要しないのではないかと思われます。筆者自身の例で言えば、筆者は昨年の夏、ふとしたきっかけから、映画館に『ジュラシックワールド 炎の王国』を見に行きました。
 
 
 筆者は映画館に足を運ぶことは普段ほとんどなく、特に近年はほとんどゼロに近かったので、完全に気晴らし目的です。たまに行くならば絶対に失敗のない、安定の鉄板をということで、恐竜を見ることにしました。
 
 
 『ジュラシックパーク』ものではおそらく、外すことはあるまいという筆者の期待ははたして、裏切られることがありませんでした。筆者は、自分自身のうだつの上がらない人生に対する倦怠と絶望、将来と健康に対する不安、その他の事象に対する全般的憂鬱を忘れ、二時間の間は純粋に恐竜たちの世界に浸ることができたというわけです。
 
 
 ただただ気晴らしだけを求めているという方には、定番中の定番ではありますが、映画としてはたとえば『ハングオーバー!』がおすすめです。これは、ハイテンションで飲みすぎたあげくに記憶をなくした男たちが、せっぱつまりながら前夜の記憶を取り戻してゆくというドタバタコメディですが、この映画のスピード感とノリのよさにはすさまじいものがあります。まだご覧になっていないという方には、TSUTAYAかGEOでDVDを借りてきて、ほんのひと時の間、この世のすべてを忘却するという可能性が残されています。
 
 
 
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 気晴らしという実存の可能性については、近代以降の哲学だけで見ても、パスカルからハイデッガーに至るまで、批判的な眼差しが投げかけられ続けてきました。このことには極めて深い意義と根拠があるということは間違いありませんが、その一方で、完全に純粋な気晴らしが人間に対して、この上ないリフレッシュの効果をもたらすことも否定できません。
 
 
 おそらく、同世代の多くの人々には同意してもらえるのではないかと思いますが、『すごいよ!マサルさん』や『ピューと吹く!ジャガー』を生み出したうすた京介氏は、いわば気晴らしマンガの王者とも呼ぶべき存在であると言えるのではないでしょうか。世の中のさまざまな問題は、氏の作品では解決しません。しかし、氏の作品は、ページをめくる間、そのさまざまな問題を抱える人々を実存の完全忘却という「至福」に導き入れるであろうということも、間違いありません。
 
 
 五分間だけ気晴らしの世界に浸りたいという方には、ドイツはホルガー・チューカイというアーティストの’’Cool in the pool’’という作品をおすすめします。これは、さあ、暑いからプールに入ろうというメッセージだけをひたすら繰り返し続ける軽めの一曲ですが、音楽そのものはモーツァルトのディベルティメントにも匹敵する完成度の高さを備えています。今回はさまざまな作品を挙げているうちに紙幅が尽きてしまいましたが、気晴らしという行為の実存論的意味について、この後もう少し考えてみることにします。