イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

友とは鏡である

 
 望ましい友の条件:
 望ましい友とは、本音で語り合うことのできる友のことである。
 
 
 たとえば、あなたが、ずっと年長で高名な学識者と話をする機会を与えられたとします。
 
 
 その場合、あなたは彼あるいは彼女との対話から非常に多くのものを受け取ることでしょうが、その人を「友」と呼ぶのはためらわれることでしょう。その人はあくまでも「あの人」あるいは「先生」であり、あなたとその人の間には、友人と呼ぶにはあまりにも距離がありすぎることは明らかだからです。
 
 
 友なる存在を特徴づけるのは、その近さです。もしもあなたが自分の意見を伝えるのに遠慮してしまうようならば、その人は友ではありません。「この人ならばわかってくれるだろう」という信頼感がなければ、友人にはなれません。
 
 
 相手がいわゆる「いい人」だからといって、友になれるとは限りません。気難しい人は、同じように気難しい人との方が親しい関係を築きやすいといったような例は多々あります。
 
 
 しばしば言われることですが、もしも自分がどのような人間であるかを知りたいと思うならば、自己反省を行うよりもむしろ、自分がどのような友人を持っているかを考えてみるとよいかもしれません。あなたが現在親しくしている友人たちが、今のあなた自身を映す鏡です(「われわれの呪わしき友情に、共に感謝しようではないか」)。
 
 
 
友 SNS B級グルメ いいね 沼 友愛
 
 
 
 友に関する一事実:
 人間は、自分と似たような相手としか親友にはなれない。
 
 
 「違っているからこそ楽しいんじゃないか」というのは、人生経験や一時的な人間関係についてならばまごうかたなき真理かもしれませんが、友情に関しては当てはまりません。そのことはたとえば、現代人のSNSの使用状況を考えてみるならば、火を見るよりも明らかです。
 
 
 自分とは違う他者との出会いを求めてSNSを用いる人は、圧倒的少数者に属します。大半の場合、SNSに費やされる努力の大半は、自分も食べてみたいB級グルメやスウィーツの画像に「いいね」を連打したり、自分と同じ趣味を持つ人と共に「推しが尊い」「〜とかほんとすこ」「キャー◯◯くんの胸キュン画像ありがとうございますぅ〜超うれしいですぅ〜」等々といった内輪コミュニケーションの沼にどっぷりとはまってゆくことの方に振り当てられているといえます。
 
 
 哲学徒の場合においても事情は同様で、この道を進んでいる人同士の間では、同性間であれ異性間であれ、知り合った途端に関係が急接近してゆくということが決して珍しくありません。ただし、同族嫌悪と互いの不寛容に由来する関係破綻のケースは枚挙に暇がないので、哲学徒たちが友愛によって連帯してゆくといった非現実的な希望は、安易に抱いたりしない方が無難と思われます(「俺自身も含めて、人間関係の距離感とかマジで全然掴めない奴しかいねぇ……」)。