イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

出会うことと喪うこと

 
 論点:
 近さの関係を築くことのできる相手とは、人生の中でも限られた数しか出会うことができない。
 
 
 会う時刻と場所、言葉や行動といったさまざまな点において、近さの関係のうちにあるあなたとわたしが過ごす時間は、習慣の次元と深く結びついている。近しい他者はいわばわたしの生の一部をなしてもいるのであって、このような関係を結ぶ相手は、単に物理的な側面だけから言っても数に限りがあることは確かだろう。
 
 
 さらに、誰を友とするか、誰を愛し、誰に教えを請うのかといったことは、わたしとその相手とがその時に通過しつつある人生の時期とも深く関連している。あの時期にあれほど人生の時間を共にしたかつての友人とも、いま出会うならばほとんど関係を築くことのないままに終わるかもしれない。生徒と教師の関係は必然的に一回限りのものなのであって、だからこそ、教わるということのうちには人生の他の何物にも代えがたいものがある。
 
 
 そう考えてみると、たとえば恋人同士が出会うという出来事のうちには、何か真に驚嘆すべきものがあるということにはならないだろうか。彼と彼女は他でもない、人生のまさにその時期に出会うのでなければ、決して愛し合うこともなかったのかもしれない。人間はみな生まれ、死んでゆくけれども、そのわずかな間に抱きしめあい、共に時間を過ごす相手が与えられるということは、たとえそれが後戻りのできない仕方で過ぎ去ってしまうとしても、忘れがたい出来事である。
 
 
 
恋人 実存 散歩 喪失 永遠
 
 
 
 わたしが実存することの真理は、わたしが近さの関係を築くあなたとの関係のうちで追い求められる。そのように考えてみると、生きることの一回性という根源的な事実が、より一層切実な事柄として立ち現れてくるのではないだろうか。
 
 
 たとえば、あの人と共に歩いた散歩の道を、わたしはもう、決してあの時のように歩くことはないだろう。幾度となく歩いたその道はわたしたちにとって、特別な道であることをやめてしまった。今わたしがその道を歩くことがたとえあるとしても、その道は既に、この世界に存在する他の無数の道と同じ一本の道の地位に戻ってしまったのであって、わたしがそこを歩いたとしても、わたしにできるのはただ、過ぎ去ってしまった時期の記憶の残滓を探ることくらいにすぎないのかもしれない。
 
 
 わたしが一人の人間について知ることができる事柄は、限られている。その事柄を知ることがわたし自身の実存に関係し、ある意味では、わたし自身を知ること以上にわたしにとって必要であるとしても、その事柄は、いずれ必ずわたしに対して閉ざされる。人間同士のつながりは儚いものであるし、また、たとえそのつながりを仮に守り通すことができるとしても、あなたもわたしも、わたしたちの想像を超える未来における死を免れることまではできないからである。あなたがわたしから遠ざかり、あなたがわたし自身の望みに反してわたしの世界から去っていったその時に、わたしは、あなたと共に取り戻すことのできない仕方でわたし自身の一部をも失ってしまったことに気づくことだろう。永遠という言葉が人間にとって痛切な意味を持ち始めるのは、逆説的にも、こうした喪失の出来事のただ中においてであると言えるのかもしれない。