イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ネットスラングに関する考察

 
 友について考える上で示唆深い一事実:
 SNS上でのコミュニケーションのあり方は、人間が〈同一なるもの〉の共有にしたがって共同性を形作ってゆくことを示している。
 
 
 「存在の家」たる言語を仔細に検討することは、物事について知る上で最も有効な方法の一つです。近年とみにネット上で用いられるようになった「推しが尊い」という言葉をめぐる事情について、ここで考察してみることにしましょう。
 
 
 「推し」とは、その言葉を用いる個人が熱烈に信奉している現実の人間、あるいはキャラクターのことです(大半の場合、複数のグループ成員あるいは登場人物を前提としつつ、その中での「推し」について語られる)。そして、同じ「推し」を推している人々の間で「推しが尊い」を連発することは、そのコミュニティ内の人々の間の距離を急速に接近させ、コミュニケーションのやり取りを一気に加熱させずにはいません。
 
 
 インターネットの登場によって、人間は、潜在的にはあらゆるコンテンツとあらゆる他者たちに開かれている、高度に可塑的なネットワークを手に入れました。
 
  
 しかし、この空間は同時に、すべての人を徹底的に孤独な真空状態に転落させてしまう危険をも宿しています。特に、相対的に見て独立した自我を備えているとはいまだ言いがたい未成年たちにとっては、このアノミーの危険は致命的なものにもなりかねません。
 
 
 そこで、半ばは自生的に、半ばはかなりの部分は企業と市場による誘導によって、〈同一なるもの〉を共有する小集団が無数に生まれることになりました。無限に細分化された島宇宙の中で「推しが尊い」が至るところで連発される昨今の状況は、スキゾフレニックなものであることも可能な言説空間を限界までパラノイア化してゆくことで秩序を保つという、ある意味では皮肉な事態の「解決」を示しているといえます。
 
 
 
SNS 存在の家 推しが尊い インターネット 島宇宙 スキゾフレニック 資本主義 快感原則 友
 
 
 
 いま筆者は「皮肉」と書きましたが、人間にはおそらく、〈同一なるもの〉の共有以外によって関係を築いてゆくことが不可能であることもまた確かです。その意味では、「推しが尊い」というメッセージを互いに交換しあっている現代の子供たちは、共同体を作るという、人間としてごく当たり前の営みの最初のステップに取り組んでいるだけであるとも言えるかもしれません。
 
 
 しかしそれが仮に、資本主義の論理と快感原則の無際限な肯定によって、「本当の意味で大人であること、本当の意味で人間であること」という、人間がこれまで曲がりなりにも築き上げてきた遺産を無視しつつ、「自由で楽しい僕たちの文化」の自閉的な循環にはまり込んだ時には、若者たちは、自分たちでも理由の分からない憂鬱と閉塞感に窒息させられるほかないのではあるまいか。
 
 
 筆者は、現代において蔓延している反出生主義的な価値観の淵源の一つは、このような「若者であること」と「大人であること」のバランスの崩壊(当人たちが意識しているかどうかとは別に、ここには資本主義というファクターが極めて密接に絡んでいるため、事態は深刻である)にあるのではないかと考えています。筆者のように、コミュ障かつ社会不適合な人間がそのように考えるというのもそれはそれで極めて皮肉な話ではありますが、いずれにせよ、とりあえずは望ましい友という本来の主題に戻ることにします。