論点:
対話することは、哲学の生命そのものである。
真理っていうとなんか堅苦しい感じもするけど、要するに、毎日誰かとしゃべり続けるということなのではあるまいか。
われわれは、これってこうだよねとか、あれってああなんじゃねとか、日夜語り続けながら生きている。そしてそれは、無駄におしゃべりしているようでいて、実は何か一つの方向を目指しているものなのではないかと思うのだ。
ていうか、一つの方向を目指さねばならぬのだ。つまりは真理である。追いかけるテーマは何でもいいから、とにかく真理を目指さねばならぬ。
個人的な例でいえば、僕はここ数日、宋王朝の歴史に非常に大きな興味を抱いている。
宋の話がしたい。澶淵の盟とか紙幣の登場とか、誰かと語り合いたい。そういうマニアックな会話を一緒に楽しんでいる友がいるということは、とても大きな恵みなのではないかと思うのだ。
僕の場合はそういう友人がいるというよりは、迷惑がられながら、周りの人たちに中国史の話をふっかけてるだけである。でもとにかく、宋でも、あるいはセブンイレブンのスウィーツのラインナップの話でも何でもいい、そうやって毎日何かについて誰かと話し続けることこそが、哲学の生命そのものなんではないかと思うのである。対話することは本を読むことと同じくらい、いや下手したら、本を読むことよりも大切なんではあるまいか……。
つまりは、哲学って多分、一人ではできないものなのである。友人が必要だ。んで、その友人はやっぱり、ネット上だけの付き合いとか遠く離れてるとかよりも、できるならば顔を合わせて話せる方が望ましいのではないかと思うのである。
いや、ネット上でコメントもらったりして勉強になったり、励まされたり、考えるきっかけになることも多々あるんだけど、やっぱりそういう時でも現実的には難しいとはいえ、理想を言えばフェイス・トゥ・フェイスで話した方が色々深まるんだろうなーと。文字のやりとりって誤解も多いし、あとは個人的には、色々やり取りするのは僕の目の調子的にムリというのもあるが……。
メールとかって、いったんコミュニケーションがかけ違いはじめたら、もはや崖を転がり落ちてゆくほかない。トラブった時のいかんともしがたさはまさに絶望的とも言えるのではないかと思うのだが、とにかくそういう理由からも、哲学徒はフェイス・トゥ・フェイスの関係をできるだけ大切にせねばならんのではないかと思うのである。この辺り、大先輩のソクラテス&プラトンが重要視している論点でもあるので、もう少し掘り下げて考えてみることにする。