イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「今や、『この生』が取り戻される……。」

 
 さて、他者への信を受け入れる決断がなされ、「他者であるあなたは存在する」が省察するわたしにとって疑いえないものになるのと同時に、私たちが以前に根源的信と呼んだ信もまた疑いえないものになってくると言えるのではないか。
 
 
 根源的信(再提示):
 根源的信とは、わたしが明晰判明に、すなわちしっかりとした仕方で認識するものは真であるという、ほとんど意識すらされていない生の根底にほかならない。
 
 
 他者であるあなたが存在するのであれば、そのあなたとわたしとが出会い、関わりを持つところのこの世界もまた、存在することであろう。少なくともわたしはもはや、わたしが見、聞き、感じるところのこの世界を、わたしのみによって体験される夢や幻のようにみなすことはもはやできない。世界はわたしの意識だけではなく、わたしの意識を超絶したところに厳として存在することであろう、あなたの意識によっても感じ取られ、知覚されるものとなったのである。
 
 
 だからこそ、わたしは今や、たとえ一人でこの部屋にいる時でさえも、わたしを取り巻く全ての物事の存在を疑うべきではないことを理解する。わたしはすでに、信じることを決断したのである。わたしの「今この部屋にいること」は、真実であろう。わたしが触れているこの机、わたしが見ているこの窓は本物の机であり、窓であろう。
 
 
 長い懐疑の回り道を経た後で、省察するわたしはついに、わたしにとって根源的な重要性を持つあの一事実もまた、もはやわたしにとっては疑うべきものではなくなったことを理解する。すなわち、わたしはこの世界のうちで実存するところの、一人の「この人間」である。他の誰でもないこの人間として、わたしは今のこの生を生きている。いつか時が来るならば、わたしはこの同じ一人の人間として、死ぬことであろう。
 
 
 
根源的信 省察 懐疑 超絶 デカルト 欺かない神
 
 
 
 かくして、懐疑とそのうちでなされた決断の過程を経て、わたしは、わたしがこれまでに生きてきた「この人間としてのこの生」が何かしっかりとした土台に基づいた、揺るがしがたいものであることを、深い必然性に基づいて、改めて理解する。わたしは確かに病み、苦しみ、老い、やがて死ぬ、一人の人間にすぎない。しかし、そのわたしがこの世界のうちでそうした一人の人間として生きているというこの事実の方は動かしがたい、厳然たる事実であるように思われる。
 
 
 他者への信への決断は省察において、根源的信への決断に先行する。従って、この他者への信はまた、他のあらゆる信に対してある特権的な重要性を持つと言わざるをえない。
 
 
 この世の他のどんな事実も、懐疑するわたしの自己破壊的な力を押しとどめることはできない。ただ、超絶する他者であるところのあなた、わたしの思惟を超え、わたしの観念の彼方においてあなた自身の「わたしはある」のうちにとどまり続けるあなただけが、わたしを疑い続けることから引き離すことができる。わたしがもはや他のすべての疑うことから解放されているとすれば、それは、わたしを超絶する他者の存在が、わたしを信じることのうちへと引き入れたからである。わたしは他者の超絶を受け入れたのと同時に、他のすべての物事をも、そして、この世界の全体をも受け入れたのである。
 
 
 以上のような論証は大体において、デカルトが第三省察から第六省察において論証しようとしたことに対応している(絶対他者の存在論証とその本性についての考察を経て、物体的事物の存在論証へ)。私たちがたどった論証は重要な部分においてデカルトのそれとは異なるけれども、彼の行った探求から非常に大きな示唆を受けていることは確かである。哲学に造詣の深い読者は、信をめぐるここでの議論が、彼による「欺かない神」に関する議論に対して、ある根源的な仕方で応答するものであることを見出すことだろう。