イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

伝統的人間観の再検討という課題

 
 論点:
 事実的なものの領域を哲学的思考によって捉えるためには、思惟の繊細さが求められる。
 
 
 聞くことは、語ることに対して事実的にも原理的にも先立っている。哲学がこれまでこの事柄に注意して目を向けることがほとんどなかったことの背景には、まず間違いなく、哲学がその本質において超越論哲学であろうとする傾向を持ち続けてきたという事情が関係している。
 
 
 超越論哲学は、語ることの純粋思考への純粋化を通して、経験の可能性の条件を劃定しようとする。注意しなければならないのは、この時に見出される超越論的なものは、見出される時には、「今もそうであるし、これまでも常にすでにそうであったはずのもの」として見出されるという点である。
 
 
 カントがア・プリオリな総合的命題と呼んでいるタイプの命題、たとえば「三角形の内角の和は二直角である」を取り上げてみよう。私たちは、ある特定の時点においてこの命題を学び、その必然性を論証によって理解する。しかし、私たちはその時にはこの命題の正しさを、これまでもずっと正しかったし、これからも正しいであろうものとして理解するのである。三角形の内角の和は、わたしがそれを学ぶ「前」と「後」、それに学ぶその瞬間といった時間の先後関係に関わることなく、常に同じであるということだ。
 
 
 超越論的な認識は、認識する主体が思考する限りは必ず真であるような認識であるのでなければならない。それは、ある意味では無時間的であるとすら言いうるような、いかなる経験にも破られることのない必然性を伴う認識である。超越論哲学は、そのような認識を遂行することのできる能動的な理性として、超越論的意識を発見するのである。
 
 
 
カント ア・プリオリ 超越論哲学 フッサール ハイデッガー レヴィナス 存在の超絶
 
 
 
 ここでは、超越論哲学である限りの哲学が生み出してきた探求の成果を否定することが問題になっているのではないことは言うまでもない。いかなる思惟の不注意が、あるいは賢しらだった近代性の批判なるものがその普遍性に疑問を投げかけようとも、超越論哲学という理念のうちには何かしっかりしたものがあることは確かであるように思われる。前回にも述べたように、哲学の歴史が明示的な仕方ではあれ非明示的な仕方ではあれ、哲学が超越論哲学であり続けようとしてきた歴史であるとするならば、真正な思考によってその理念が無用のものとして宣告されることはこれまでなかったし、これからもないであろう。
 
 
 しかし、超越論哲学が経験の特権的なモデルとしてきた思考の能動性の経験は、果たして人間の人間性を証しする唯一にして最大の経験なのだろうか。語ることは、聞くことに対して本当に先立っているのか。むしろ、能動性としての語ることには、ある謎めいた受動を、思考の能動性そのものを目覚めさせる能動的な受動としての聞くことの方が先立っているのではないだろうか。
 
 
 哲学の伝統はこれまで、人間存在を能動的な理性として見出し、そのことに基づいて人間の本質を解明しようと努め続けてきたけれども、フッサールハイデッガー、そしてレヴィナスといった哲学者たちは、特にそれぞれの思索の後年になるにつれて、能動性という枠には収まりきることのないところで人間の人間性を探り続けていた。「存在の超絶」の理念に導かれつつ、語ることに対する聞くことの先行性という事象を探り当てようとする筆者の試みも、歴史的に見るならば、この大きな流れに連なるものであると言えるのかもしれない。それは、思考する理性という人間像を否定することなく、その妥当性と尊厳をさえも承認しつつも、思考する理性それ自体が生まれ出てくる経験そのものの方へと思惟の努力によって遡ってゆくことなのである。