イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

事実的な過去と、思考の生起について

 
 論点:
 語ることに対する聞くことの先行性は、事実的な過去とでも呼ぶべき時間性の構造と共に理解する必要がある。
 
 
 認識の主体であるわたしの語る言葉の一つ一つ、その意味と音の響きの一つ一つが、わたしがこれまでに耳を傾け続けてきた他者たちの無数の言葉によって形づくられたものである。独白する純粋思考としての意識というイメージは、後から思い描かれた抽象にすぎない。そのイメージが思い描かれる前には、他者と語り、その言葉に耳を傾ける人間が、あるいはむしろ、語るすべさえもわからず、ただ他者の言葉を聞き取ろうとし続けていた一人の実存する人間が必ず存在している。
 
 
 聞いたことの記憶、思考するわたしの実質を形づくっているこの過去は、内観によって捉えることができない。それは、思い出すことができないほどに古く、その起源を辿ることさえもできないものである場合がほとんどである。思考する意識であるわたしには、今この瞬間のわたしがなぜこのように考えるようになったのか、その歴史のすべてをたどり直すことは原理的に言って不可能なのである。
 
 
 かくして、聞くことの事実性は、認識の主体であるわたしには想起することの不可能な過去に関わっていることになる。それは、明確にたどり直すことは全くできないにも関わらず、今わたしがこのように語っているからには、必ずや存在したであろうと想定せざるをえないような過去である。わたしの現在は、もはや辿りかえすことのできない無数の過去の存在によって、はじめてこの現在たりえている、というわけである。
 
 
 
内観 認識の主体 事実的な過去 超越論哲学 存在の超絶
 
 
 
 超越論的なものの場合には、意識は内観することによって、そして、認識の経験からその経験の可能性の条件の方へと遡ってゆくことによって、いつでも検証可能なものに到達することが可能である。それは、わたしが思考するからには必ず妥当せざるをえないところの思考の形式である。この形式それ自体の方へは、意識は意識自身を振り返ることによって遡行することができると想定されている。
 
 
 これに対して、いま問題になっている「事実的な過去」については、事情は全く別である。それは、今のこの瞬間にわたしがこのように考えている、そのわたしの事実的な思考に根源的に関わりつつも、もはやその大部分が想起不可能になってしまっているところの、従って検証することも不可能であるところの実在的な過去である。
 
 
 こうした過去は、少なくとも従来の意味で言われてきたところの超越論哲学の枠組みにおいては扱われてこなかったものと思われるけれども、哲学が人間の人間たるゆえんを問うというおのれの本来の課題に向き合おうとするならば決して見落とすことのできない次元を指し示しているのではないだろうか。この過去は、能動的な理性としての人間という伝統的な人間観の根底に、思考する理性そのものを生み出す、聞くという行為を発見する。理性は、自己を超絶する他者の言葉に耳を傾けることによって、はじめて理性となることが可能になるのではないか。存在の超絶という理念に導かれて歩みを進めている私たちの探求は、ここに至って、思考そのものが超絶からの働きかけによって生まれ出てくるその地点にたどり着きつつあると言えるのかもしれない。