ここ数日、久しぶりに『老子』にはまってるんだよねー。
「……はぁ。」
昔は『荘子』の方がすごいんじゃないかと思ってたけど、『老子』もめちゃくちゃ奥深いのだ。なんかもう、奥深いという一語に尽きる。そういうのって、なんか憧れるのである。この人ってマジで奥深いとか思われ出しちゃったりしたら、もう勝ちしかないのではなかろうか。
「……まぁ……。」
いやつまりだよ、一度尊敬されだしたら、もはや何言ってもすごいみたいになるじゃん!たとえばだ、僕がいま「道は奥深く、それは言い表すことはできない」とか書いても、何言ってんのこの人、で終わりである。だがこれが超絶カリスマ哲学者が言ったとしてみたまえ、それだけで150リツイート500いいねくらい来るかもしれないではないか!
「……。」
発想が浅ましいと思うかい。うん、自覚してる。でもこれ、哲学的にはめちゃくちゃ重要な論点だってことは、間違いないのではないか。何を語るのかではなく、誰が真理を語るのかという問いもまた、われわれ哲学者の究めるべき問いではなかろうか(真理の問題に対するニーチェ的アプローチ)。
いやごめん、そういう高尚な問いも気になるは気になるんだけど、ぶっちゃけ僕が本当に気になってるのは、カリスマになっちゃったらどんな人生なんだろうなーポッ(←恥じらいの音)ってこと。気になる。気になるなーポッ。
「……そうですか。」
いや、僕だって分かってるよ、希望なんて1ミリもないってこと。でも、夢くらい見たっていいじゃないか。僕はもう、ブログという脳内幻想の中で生きるのだ。ただ今思ったけど、ハッスルできるのはブログの中だけって、自分から見てもめっちゃみじめだなこれ……。
まいいや、本題に戻るとである、人間がどういう時にある人物の発言を真面目に聞いて、どういう時に聞き流されちゃうのかっていう論点は本当に気になるのである。要するにその人物が尊敬されてるかどうかってところなんだろうけど、尊敬の念って、どうやって生まれてくるのであろうか。
ギリシア人たちの追い求めた「徳(アレテー)」から精神分析の「転移」にいたるまで、人類の知恵の探求の歴史は、尊敬される人間とは何かを考え続けてきた歴史でもある。だから、こういう問いを立てるからといって、別に僕が特別浅ましいというわけではないはずである。うむ。