イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

『存在と時間』を書いた時期のハイデッガーについて

 
 論点:
 師は、弟子よりも先に死ななければならない。
 
 
 師は、なぜ偉大なのであろうか。それは究極的には、師が弟子よりも先に生き、生きるということはどういうことかを自分自身の目で先に見てきたからに他ならないのではないか。いやほんと、これってそうなんじゃないかと最近ますます強く思わされているのである。
 
 
 当たり前といえば当たり前のことかもしれないけど、人間って、自分で体験したことじゃないとほんとに何もわからない。ある若者がいかに賢くとも、その若者が若者である限りは、彼あるいは彼女には決して乗り越ええない限界があるのではないかと思わざるをえないのである。
 
 
 数学とかは若くても天才が出てくるし(というか、ある程度若くないと仕事をするのが難しいという、それはそれで厳しいところのある世界のようである)、芸術でも、音楽なんかは二十代、下手したら十代でもすごいものが書けちゃったりもする(ex.椎名林檎とか宇多田ヒカルとかは、個人がどうこうというのを超えてもはや〈自然〉の驚異をすら感じる)。しかし、こと哲学に関して言うならば、三十代に達するよりも前に本物の仕事が出てくることは、ほとんどないようである(cf.たとえば、ヒュームなんかは例外的に早熟のようであるが、彼の哲学は、やはりガチな本物の哲学という点からいうと超一級のランクには属さないのではなかろうか)。
 
 
 哲学は、完成までに時間がかかるのだ。かくいう僕も、哲学者としてはここからが正念場なのではないうかと感じているので、気を緩めることなしに毎日を全力投球で過ごさねばならぬのである。三十代で完璧な傑作を書くのは原理的に無理だとしても、あのハイデッガーはすでにその年代でレジェンダリーな『存在と時間』を書き上げてしまったではないか。僕もそろそろ「哲学徒」から「哲学者」へのグレードアップに向けて、日々、概念の彫琢に精を出し続けねばならぬ……。
 
 
 
師 弟子 椎名林檎 宇多田ヒカル ヒューム 哲学者 存在と時間 ハイデッガー ダークサイド パルメニデス ヘーゲル ハイデッガー レヴィナス フッサール ドゥルーズ
 
 
 
 まいいや、本題に戻る。われわれは、たとえ自分たちよりも先に生きたというだけの理由であっても、恐らくは先人たちを尊敬せねばならぬのではあるまいか。そして、先人たちの残した最大の遺産である古典に対しては、最大級の尊敬の念を払わなければならないことは言うまでもないのではないかと思われる。
 
 
 今の例でいえば、やっぱり『存在と時間』とかは、少なくとも哲学的にはめちゃくちゃすごいわけである。ハイデッガー先生は三十代半ばで、哲学史現象学の両方に正面から挑戦したわけですよ。しかもそんな大胆なことに挑戦して、実際に歴史に残ってしまったわけですよ。
 
 
 筆者としてはそこに、哲学者としてというよりももはや人間としての勇敢さを見ないわけにはゆかないのである。ハイデッガー先生には例のダークサイド問題があるので、すべてを忘れて全面的に褒めちぎるというわけにもゆかなそうであるが、哲学徒はみな、先生の勇敢さからは大いに学びうるであろう。哲学者たるもの、やはり最後には勝負せねばならぬ。パルメニデスであろうとヘーゲルであろうと反論するときには反論するみたいな気概も、時には必要なのではないだろうか。
 
 
 個人的にはここ数年、二十世紀の哲学はやはりハイデッガーレヴィナス先生に極まるのではないか(フッサール先生とかドゥルーズ先生とかも、言うまでもなく偉大ではあるが)という実感が、ますます深まりつつある。少なくとも僕自身にとっては、この二人こそが現代哲学におけるグランド・マスターなのである。師が先に死ななければならないという論点にまでたどり着くことができなかったが、それは次回以降に回すこととして、とりあえずは偉大なる師匠たちに頭を垂れるということで、今回の記事を締めくくることにしたい。それはともかく、なんか最近、ただひたすらこればっかり言ってる気もするな……。