イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

プロの領域

 
 論点:
 哲学者が隣人に、そして人類の共同体に贈ることのできる固有のものとは、真理の言葉に他ならないのではあるまいか。
 
 
 貧者にパンを、病人に癒しをというのは、他者に与えることのできるものの中でも最も重要なものの一つであろう。また、愛する人の贈る親愛のこもったプレゼントというのは、人生においても忘れることのできない思い出を与えてくれるものなのではないかと思われる。
 
 
 しかし、哲学者が哲学者である限りにおいて他者に贈ることのできる、彼あるいは彼女に固有のものとは、真理の言葉に他ならないのではないだろうか。
 
 
 筆者個人に関して言うならば、筆者はすでにこれまでの人生で、過去の哲人たちから限りない恩恵を受けた気がする。その中でも、最も重要な名前だけをここでいくつか挙げるならば、ソクラテスプラトンアウグスティヌストマス・アクィナス、インマヌエル・カント、そして、何だかんだ言ってもマルティン・ハイデッガーといったところだろうか。
 
 
 彼らはまさしく、人生を哲学の真理のために捧げた「人類の公僕」であった。最後に名前を挙げたハイデッガーなんかは例のナチスの件があるため、両手を上げて名誉を褒め称えるというわけにはゆくまいが、やはり哲学に対して多大な寄与をなした先人であったことは否定できそうにない。
 
 
 今日の自分は、これらの偉大な先人たちの思考の足跡なしにはありえないことは、間違いのない事実である。いや、別に自分が何をなしたわけでもなく、これからさらに修練に修練を重ねてゆく必要があることは、言うまでもないのだが……。
 
 
 
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 すごいのは、たとえば「生きてるって何の意味があるんだろう」「死んだらどうなるの」みたいな問いについて考える際にも、もしも人がそれらの問いを真剣に考え抜こうとするならば、これらの先人たちの存在を無視することは決してできないということである。
 
 
 「僕的/わたし的には、人生ってこうだと思う」では、探究者としてはアマチュアにとどまらざるをえないのである。哲学にも紛うかたなきプロの領域というのがあって、そこではプロ中のプロたちが「ひとは何のために生きるか」という問いに対して、何千年も議論し続けている。そして、そこで出された数々の答えは単に「俺的にはこう」っていうものではなくて、「真理そのものからして、人生とはこうである」といったようなすさまじい仕上がりになっているのだ。
 
 
 筆者はここ数年、このような「プロの領域」に対する憧れと気概のようなものを持ちはじめている。このような企てにおいては、できるかできないかよりも、まずは意志しようとするか否かが重要なのではあるまいか。それはともかくして、哲学者としては、いずれは何らかの意味において「プロの領域」に貢献するという(いい意味での)野心が必要なのではないかと思われるのである。