イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

誰かが、わたしの知らないところで

 
 ここのところ、自分自身の人生について書きつづけてきたので、今日は、他の人たちのことについて少し考えてみることにします。
 
 
 わたしは、わたしが主人公である世界を生きています。わたしにとっては、他のすべての人間は脇役にすぎません。そのため、他の人たちは、あくまでもわたしの物語の中に登場するかぎりでのみ視界に入ってくるというのが普通です。
 
 
 けれども、脇役であるように見えるすべての人たちもまた、その人たち自身が主人公であるような世界を生きています。だからこそ、彼らには、わたしには決して完全に知ることのできない、彼ら自身の喜びと悲しみがあります。「彼らからは、このわたしは一体どう見えているのだろう。」そう考える時にはこの世の姿がまったく違って見えてくるのは、言うまでもありません。
 
 
 僕はこの一ヶ月のあいだ、自分では死ぬくらいに苦しいと思う体験をしました。その結果、実感を伴ってわかってきたのは、自分にはこれまで、この世の中のごく限られた部分しか見えていなかったということでした。
 
 
 もちろん、今でも見えていない部分がそれこそ無数にあることは、言うまでもありません!けれども、死ぬほどに苦しいと思いながら生きている人が自分の近くにもたくさんいるということが前よりもはっきりとわかったことは、やはり大きかったと思います。
 
 
 
苦しみ 他者 死
 
 
 
 僕はこの一ヶ月のあいだ、さまざまな人と話してもらいました。病気で苦しんでいる人もいれば、仕事のことでまったく先が見えずに苦しんでいる人もいました。僕と同じように、死の恐怖で苦しんでいる人もいれば、身近な人が耐えがたいほど苦しんでいることに、自分の方でも痛みを感じている人もいました。
 
 
 もちろん、苦しみだけを強調するのは間違っている気もします。こちらにも喜びが伝わってくるほどに幸せそうな人も、たくさんいました。その一方で、苦しんでいる人がいるということは、普段はとても見えにくいということには、注意しておく必要があるかもしれません。それは一つには、苦しんでいる人を見るのは、見ている自分の方も辛くなってしまうということがあるように思います。死に近い人を見ることで、自分も死の方に引きずられてしまうからだとも言えるかもしれません。
 
 
 そういうことを考えているうちに、自分の人生で何をすべきなのか、もう少し考えなおしてみたいと思うようになりました。まだはっきりとした答えがあるわけではありませんが、書きながら、考えてみることにします。