外傷とその否認をめぐる考察から言えそうなのは、つまるところ、人間にとって最も重要な問いとは、次のような疑問なのではないかということです。
「存在するべきか、否か? To be or not to be?」
わたしは、生まれてくるべきではなかったのではないか。このつぶやきは、その深刻さが極まった時には、事実そのものの否認にまでいたります。
いや、わたしは生まれてきたりなどしなかった。死ねば無になるのだから、もともと存在しないのと同じではないか。
あるいは、ひとは自分自身の存在をそのまま受け入れることの代わりに、自分自身についての神話によってその存在をかき消してしまおうとします。
「俺たちは人種的に優れている。奴らはゴキブリで、俺たちの国と富とを強奪している……。」
血の神話に頼ることとは、おのれのみじめさに向き合うという苦役からの逃避なのではないか。そして、人間は血の神話の代わりに、金銭の、健常者の、あらゆる階級の神話を語りつづける……。
人間にはおそらく、生きているかぎり、必ずどこかでおのれ自身のみじめさに帳面せざるを得ない瞬間がやってこざるをえないのではないか。
たとえ、すべてのものに恵まれていたとしても、最後にはあの死というものがやってくる。わたしは、幼いころには死を知らなかったが、今は知っている。
すべての人と同じように、わたしは自分自身の死を願うこともある。しかし、すべての人と同じように、わたしは自分自身が死ぬことが恐ろしい。気晴らしと享楽にふけっているあいだだけは、そのことを忘れられるのだが、しかし……。
どれほど陽気に騒ごうとも、ひとは自分がいつか死ぬということを心のどこかで考えつづけています。その意味からすると、ひとはつねに生きながらにしていくぶんかは死んでいると言うことができるのかもしれません。