神との戦争状態という問題にさらに迫るためには、一挙にものごとの核心に近づいてしまった方がよいかもしれません。
神の問題について考えるためには、おそらく、この現代においてはほとんど忘れ去られてしまっている感覚をよみがえらせておく必要があります。その感覚は、言葉で言い表すならば「神は生きている」というものです。
哲学者たちには、神という存在を概念のなかで片づけてしまおうとする傾向があります。神という主題は、まるで数学や論理のうえでの存在であるかのように、非人格的な何ものかとしてとり扱われることが珍しくありません。
けれども、神がおよそ概念のうちなどには到底おさまりきらないような、人格をもった存在であるという可能性もあるのではないか。これまでのほとんどの哲学は、「神は生きている」という可能性を暗黙のうちに消し去ったところで考えつづけてきたのではないでしょうか。
「常軌を逸している。」確かに、その通りかもしれません。けれども、現在の人文知の世界の状況には、そうした可能性について考えることへとひとを促すようないくつかの兆候が現れはじめているというのも事実です。
たとえば、20世紀に発達した精神分析学という学問は、哲学にたいして、いま論じているような方向に向けて非常に大きなインスピレーションを与えるものです。
とくに、ジャック・ラカンという人の〈大他者〉についての探求などは、まさしく神の問いにダイレクトにつながっていると言えるのではないか。もっとも、ラカン本人としては、そういう方向に議論を進められることについては、いささか心外かもしれませんが……。
概念におさまりきらない「生きている神」について考えはじめるとき、哲学は、広大な未知の領域が自らの前に開かれているのを発見します。哲学の営み自体がある種の歴史的な行き詰まりを迎えているいま、私たちは、この未開の地を探索してもよいのかもしれません。