イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「先駆」は存在論の次元を要求する:1927年の『存在と時間』出版は、なぜそれほどまでに衝撃的であったか

 
 私たちは『存在と時間』が問題としている根本事象の方へと、次第に近づきつつある。ハイデッガーの次の一節を読みつつ、「死への先駆」の概念を仕上げるという課題に取り組んでゆくこととしたい。
 
 
 「死を真とみなして保持することー死はそのつどじぶんに固有な死であるーは、世界内部的に出会われる存在者や、形式的な諸対象にかんするあらゆる確実性とはべつのありかたを示し、またそうした確実性よりも根源的なものである。なぜならそれは、世界内存在を確実なものとするからだ。」(『存在と時間』第53節より)
 
 
 すでに見たところによれば、死とは現存在であるところの人間にとって、「最も固有な、関連を欠いた、追い越すことのできない、確実な、それでいて未規定的な可能性」であった。死へと先駆することは、この可能性を自分の存在のうちに取り込むことであるから、それはまさしく「死を真とみなして保持すること」を意味するはずである。しかし、上の文章で言われているように、ハイデッガーによれば、この「真とみなして保持すること」のうちに含まれる確実さの本質を見誤らないことが、非常に重要なのである。『存在と時間』理解の全体に関わってくる論点なので、しっかりと見ておくことにしたい。
 
 
 最も固有な可能性であるところの「わたしの死」は、観察したり推論したりすることによって客観的な仕方で立証することのできる法則や事実とは、別のあり方をしている。それは、論理的な意味における確実さを示すことがないとはいえ、ある意味では、そのような確実さをはるかに超えた重要性と共に差し迫ってくる、ある種独特な「確実さ」を備えていると言えるのではないか。人間存在の「存在」そのものがその本質からして「死へと関わる存在 Sein zum Tode」であるとするならば、そういうことにならざるをえないように思われるのである(※)。
 
 
 従って、「死の確実性は、出会われるさまざまな死亡事例の確認にもとづいて算定されることができない。」現存在であるところのわたしの「死へと関わる存在」は、他者たちの死をいくら数多く目撃したからといって、本来的な仕方で引き受けられているとは限らないのである。「先駆する」とは、自らの可能性を単に理論的な仕方で認識することを超えて、自分自身の全存在でもってその可能性を根源的な仕方で先取りしつつ、掴み取ることを意味する。従って、「死へと先駆すること」の射程は、「わたしがいつの日か死ぬ」という事実を客観的な仕方で知っているということを、はるかに超え出ていると言わざるをえないのではないか。「死へと先駆する」とは、「現存在であるところのわたしは、いつの日か必ず死ぬ」という根源的な事実を、その全存在でもって絶えず引き受け続けているということ、「わたしは今のこの瞬間にも破滅するかもしれないが、まだ生きている」を、死ぬことの覚悟と共に体現していることを意味しているのである。「先駆」は現存在であるところのわたしに対して、自らの死を本来的な仕方で死ぬことのできる人間であることを要求するのだ
 
 
 
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 読解は、取り扱われている概念が向き合っている根本事象の方へ近づこうと試みる中で、その概念が持っている可能性を、なしうる限り深く掘り下げてゆくのでなければならない。今回の論点からは、『存在と時間』において語られているいくつかの鍵語について、それぞれに関する理解を深めておくことができそうである。
 
 
 まずは、「先駆」である。先駆するとは上に見たように、自らの実存の可能性を理論的に知るといったようなことを意味しない。むしろ「先駆」は、実存の極限的な可能性のうちに身を置き入れることによって自分自身の存在のあり方を根底的に変容させることをも、意味しているのである
 
 
 ここには、『存在と時間』のうちで語られている「開示性」の概念が含み持っているより深い射程もまた、示されていると言えるのではないか。「先駆」は実存の可能性そのものの開示として、その可能性を確実なものとして開示するのだが、その開示のあり方は単に認識論的なものであることを超えて、まさしく「存在論的」と呼ぶほかない広がりのうちで捉えられるのでなければならない。死の可能性を開示するとは、「死を覚悟した人間であること」に向かっての決定的な変容へと身を投げ入れてゆくことをも意味しているのである。
 
 
 すなわち、人間存在を「理論的な主観」あるいは「宙に浮いた意識」として捉えることをはるかに超えて、この世界のうちで現実に生き、行為し、自分自身の将来へと向かって先駆する「実存する現存在」として掴み取らなくてはならないのであって、1927年に出版された『存在と時間』が当時の哲学界に与えたすさまじい衝撃は、「私たち人間存在について、そして、私たちが生きているということそれ自体について、これほどダイレクトに語ることのできる哲学のあり方が存在するのか」という驚愕と、決して切り離すことのできないものであった。この意味からすると、「死への先駆」の概念は、この衝撃がまさしく尖鋭的なものとなる一点において、2022年の現在を生きている私たち自身の現存在をも突き刺さずにはいないと言えるのではないだろうか。次回の記事では、上に引用した文章に見られる「世界内存在を確実なものとする」という表現に着目しつつ、「世界内存在」の概念を掘り下げてみることとしたい。
 
 
 
 
[(※)部分とも密接に関連しますが、「死へと関わる本来的な存在」に関する議論を通して、現存在、すなわち、私たち人間存在それ自体に対する「理解」を根源的な仕方で変容させてゆくことを試みるというのが、今回の記事の要点です。これは、ハイデッガー的な意味における「理解」の概念の射程にも関わることですが、『存在と時間』における議論の多くは、デカルトやカントの哲学の場合のように「読めばとりあえず、何を言っているのかは理解できる」というよりも、「書かれていることについて丹念に思索し続ける中で、実存それ自体の根底的な変容が起こり、そのことによって、なぜハイデッガーがこのように独特な概念を案出したのかも深く『理解』されてくる」といったものになっています。つまるところ、『存在と時間』は「この本が出版されてしまったがために、哲学の歴史は1927年以前にはもう戻れなくなってしまった」という位に衝撃的な本なのですが、この本がなぜそれほどまでに衝撃的であるのかを「理解」するためには、かなりの労力を要すると言わざるをえないようです。2022年はこの本の心臓部に本格的な仕方で取り組むことになりそうですが、20世紀の哲学者たちが体験した「1927年の衝撃」を再び根底的な仕方で受け取り直すことを目指して、探求に付き合ってくださる方がいることに感謝しつつ、読解を進めてゆきたいと思います。]