イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

他者の問題圏へ

 
 今回の探求の主題は、次のものである。
 
 
 問い:
 わたしは他者について、何を知りうるか?そして、その他者といかにして関わるべきか?
 
 
 このような問いを立てることの背景には、主に言って二つの動機がある。まず最初に、前回の探求からの続きとして、「わたしは真理をいかにして知りうるか」という課題が残されているという事情が挙げられる。
 
 
 この課題に取り組むことは筆者にとって、超絶としての存在と人間との関わりを問うことに等しい。もしも「ある」ということが認識する人間としてのわたしを超えているのだとしたら、わたしはどのようにしてその「ある」に関わることができるのだろうか。「ある」の超絶がそのまま不可知論を意味するのでないとすれば、あるものについての知はいかにして可能となるのだろうか。筆者はこの課題に取り組むに際して、他者の問題を手引きとしつつ探求を進めてみたいのである。
 
 
 「ある」の意味は本当は他者の体験を通してこそ、その十全な射程において問われうるのではないか。近代の哲学は自然科学の存在を手がかりとしつつ、陰に陽に、「ある」の意味をものについての経験のうちで自明視しつつ、知の可能性の問いを問い続けてきた。しかし、そのことは「ある」の意味を隠蔽し、さらには「ある」ことそのものが「ある」ことをこれまで閑却させ続けてきたのではないだろうか。この最後の懸念は、前世紀の偉大な探求者であったマルティン・ハイデッガーも抱いていたものであるけれども、「ある」の意味に他者の問題から迫ってゆくというのは、彼が決して問うことのなかった方向に大きく探求の舵を切ってゆくことを意味する。われわれは、「他者について何を知りうるか」と問うことのうちで、「ある」の深淵のうちへと踏み入ってゆかなければならない。
 
 
 
ある マルティン・ハイデッガー 他者
 
 
 
 もう一つの動機としては、哲学者が、現代という時代がその内奥において抱え込んでいる窮迫に対して、哲学者なりの仕方で向き合わなければならないという必要性が挙げられる。
 
 
 私たちの時代は人と人が関わることに対して、必ずしも表面に上ってきているわけではないとはいえ、どこまでも根深い絶望を感じているのではないか。この絶望は、おそらくはこれまでの時代の人間たちも多かれ少なかれ共有し続けてきたものではあるけれども、意味経験そのものを対面の経験から切り離す情報技術の出現によって、かつてないほどの深刻さをもって人間に迫りつつあるのではないか。
 
 
 厄介さから逃れさせてくれるはずの「他者のいない世界」の到来は、実はそのまま自殺願望の完成でもある。わたしの世界の中には望ましい他者の「イメージ」と、他者たちの「情報」だけに入ってくることを許すという選択は、わたし自身を死に引き渡すことでもあるのではないか。自身も時代の病人である哲学者は、おのれの病と向き合いながら哲学の問いを問わなければならない。他者の問題について考えることは、遠い仕方ではあれ、われわれの誰もが抱え込んでいる病の中でもがき、苦しみながら、その病とは別の生存の可能性を見出そうと努めることなのである。