イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「あなた」のうちで命を知ること

 
 前回の論点をさらに掘り下げてみることにしよう。
 
 論点:
 人間にとって他者を知ることは、自分自身の命を知ることにも等しい意味を持つ。
 
 
 これまで見てきたように、自己自身であることが本当は他者による承認の次元によって成り立っているものであるならば、他者との関係性は自己に後から付け加わってくる「余暇の楽しみ」や「贅沢品」などでは全くなく、むしろ、自己が自己であることを日々可能にしている条件そのものであることがわかる。人間が生きてゆくための条件を考えてみる限り、「人はパンのみに生きるものではない」と言わざるをえないのである。
 
 
 もちろん、どのような他者との関係によって自分自身の命を命たらしめているのかは、人によって異なるだろう。家族や友人たち、そして、公共世界と取り結ぶ関係の中で、比較的安定しているように見える人生を営んでいる人もいるだろうし、仕事以外には全く社会とのつながりはないけれども、たった一人の恋人との関わりによって生きることのうちへと引きとめられている人もいる。
 
 
 病んでいる人は、孤独の中で自分自身が人間であることの意味を見失い、絶望しながら死者たちの世界の中をさまよい歩く。他者性の次元を情報やコンテンツの次元へと還元し、あたかも倫理的なもののカテゴリーが存在しないかのように生きるとすれば、現代の人間は、気づかないうちに自分自身を陰府の方へと追いやってゆくことになるだろう。おそらく、この時代を生きている私たちはみな、世界を世界たらしめている原理によって、また、自分自身の咎によって、多かれ少なかれ病んでおり、それとは気づくことなく絶望しており、画面上の無数の他者たちに囲まれながらも、その本当の姿においてはどうしようもなく孤独なのである。
 
 
 
命に嫌われている 存在の超絶
 
 
 
 私たちは、なぜ命そのものから見捨てられているのだろうか。幸福という言葉は、なぜ私たちからこれほどにも遠ざかってしまったのだろう。この世界そのものが無意味であるという観念が私たちに取り憑いて離れないのは、一体、どのような理由によるのだろうか。
 
 
 「わたしは、他者について何を知りうるか」という問いを問うことが単なる哲学上の一問題であることを超えて、哲学の営みそのものの根幹に関わってくる問いとなるのは、こうした意味合いにおいてのことである。哲学はこれまで、世界について、また、世界の中で特権的な認識の主体として存在する「わたし」について問い続けてきた。「わたし」を超え、その超絶の高みから「わたし」を「わたし」たらしめている「あなた」の存在については、哲学はまだ、それについて語るための文法や語彙を探し求めているただ中であると言わざるをえないのである。
 
 
 他者の他者性を追い求めてゆく中で、存在することが「存在の超絶」として、認識の主体であるわたしを超える「ある」として告げられることになるのではないか。筆者には、「形而上学と倫理とはひとつである」という命題は、哲学にとって根源的な重要性を持つもののように思われる。ここから先の考察では、他者の他者性を問う中で、この命題の意味するところをさらに掘り下げてゆくこととしたい。