イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

唯物論と存在理解

 
 論点:
 存在の問いへの答えは、それがいかなるものであるにしても、われわれに驚きをもたらすものでしかありえないであろう。
 
 
 たとえば、この問いに対する自然主義的あるいは唯物論的な答えとは、「一切の存在者はいわば理由もなく存在しているのであって、存在者は自身の他に何の根拠を持つことなく、ただ存在している」といったものになるものと思われる。
 
 
 そこには一見、ただの乾いた剥き出しの世界が、何も驚きを引き起こすことのない当たり前の世界が広がっているだけのようにも見える。しかし、もし仮に事態がそのようになっているのだとすれば、改めてよく考えてみると、これ以上の驚きをもたらすことは他にないと言えるのではないだろうか。
 
 
 なぜなら、その場合には、世界は他に何の理由もなく、いわば自らによってのみ自らを存在させていることになるからである。こうしたことが起こりうるということは、われわれの想像を超えている。現代人であるわれわれは自然科学的な思考に慣れ親しんでいるから、「いかにあるか」を捉えることには精通しているけれども、「なぜあるか」という問いを問うに際しては、ほとんど道具立てを何も持ち合わせていないのである。
 
 
 唯物論的な立場を奉ずる人の中には「なぜあるか」という問いそのものが問うに値しないものであり、無意味な問いであると考える人もいるかもしれない。しかし、いったん「なぜあるか」の問いに着目するならば、この問いに対する唯物論的な答えもまた、何か非常に驚くべき、ほとんど神秘とも呼ばざるをえないような存在理解にたどり着くことは避けられないように思われるのである。
 
 
 
 存在 唯物論 自然科学 不可知論 無神論者 スピノザ
 
 
 
 自然科学の方法論は、「なぜあるか」の問いには不可知論の立場を取りつつ、この問いを問うことを意図的に停止して、もっぱら「いかにあるか」という点に探求の焦点を当てるという決定がなされるところに成立する。
 
 
 この決定事態は、存在の問いを問うことに対してはいかなる価値判断を下すことはなく、ただ問うことを差し控えるという「慎ましい判断停止」を意味するだけのものであるはずであるが、自然科学的な探求がこの四百年ほどの間に見られるような多大な成功を収めたとなると、そこに傲慢や尊大さが生まれてきて、「なぜあるか」を問うことそのものが無意味であるとする極端な唯物論主義も生まれてくることになる(もっとも、このような唯物論主義の行き過ぎは科学者たち自身の中にというよりも、科学のもたらした成果をもっぱら享受している非-科学者の中に顕著に見られるという事実には、注意しておく必要がある)。
 
 
 かの「有徳な無神論者」スピノザの場合は、唯一の実態というあの忘れがたいテーゼのうちに、「なぜあるか」という問いに対して極めてラディカルな立場から答えようとする挑戦の姿勢が体現されていたけれども、現代においてはそのような挑戦さえもがもはやなされなくなり、存在の問いを問うことの放棄が当然のものとされているとすれば、非常に遺憾な事態であると言わなければならない。いずれにせよ、今回見たような「唯物論的な」回答もまた、本来は存在の問いを突き詰めてゆくことを無意味なものとせず、むしろそのことを要請するということは確かであるように思われるのである。