イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

無意味の問いが発されることのうちで……。

 
 存在の真理:
 存在者が存在する。あるいは、その極点においてはもはや存在者がではなく、「存在が存在する」。
 
 
 現代の人間の抱えている問い、そして、あらゆる時代の人間が向き合い続けてきた問いとは、「本当は、すべてのことは無意味ではないのか?」というものである。
 
 
 この人生において何を問い、何を問題にしなければならないのかという点については、人によってそれぞれ意見が違うことだろう。この世界には意味があるのかという問いを限りなく身近なものに感じている人もいるであろうし、そんなことは生まれてこの方一度も考えたことがないという人もいることだろう。
 
 
 しかし、哲学の問いとは問うわたし自身の問いであるだけでなく、人間そのものが問わなければならない問いであるべきなのではないか。そして、筆者には、世界と生の無意味の問題は、実は何をしていても本当はそのことだけが問われているといった類の根本的な問題であるように思われるのである。
 
 
 現代の人間は、たとえ表向きにはそう見えなくとも、価値の途方もない空洞の中を生きているのではないか。それぞれの人間の目に見えるものは限られているけれども、筆者はこれまでの人生で見てきたもの、話してきた人々、読んできたもののすべてを考え合わせてみて、そこに人間の発する「すべてのことは、本当は無意味ではないのか」という問いかけを聞いたような気がしてならない。そして、この問いを問うということは、根源のところでは「ある」ということはそもそも、どのようなことであるのかという問いにつながっているように思われるのである。
 
 
 
存在 哲学の問い 真理とは何か ある
 
 
 
 人間の中には数は少ないけれども、苦しみが深まって「わたしは生まれてくるべきではなかった」という呻きを漏らさずにはいられない人もいる。哲学をすることは遠い仕方ではあれ、そうした呻きに対する応答でもなければならないのではないだろうか。
 
 
 哲学は世界や生といったものを問題にするために、世界や生を超えて、「ある」ということそのものを問う。「あるがある」を問うこと、存在の真理を問題にすることは私たち自身の実存から遠く離れたものであるように見えて、本当は、実存を問い詰めていったその先に、あらゆる生の真剣な問いがそこに収斂してゆくといった類のものである。先人たちのうちの幾人かは、そう考えた。筆者もその流れに連なるものの一人として、これからも考え続けてゆきたいと思う。
 
 
 それにしても「ある」とは、一体どのようなことなのだろうか。そのことをさらに問い進めるためにも、私たちは、「真理とは何か」というそもそもの問いに向き合う必要がある。命題の真理と本質の真理という、すでに論じた次元との関係のうちにこの存在の真理の次元を置き直しつつ、この問いに対して筆者なりの答えを出すよう努めてみることとしたい。