イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

人間が存在の問いを問うことの意味

 
 論点:
 存在の問いを問うのは、この世界の中でも人間のみである。
 
 
 「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」このように問う私たちは、今この瞬間に存在している。無ではなく、存在しているもののただ中で、なぜ無ではなく、存在者があるのかと自問している。
 
 
 これほど実用性からかけ離れた問いもなかなかないであろうが、ある意味では、これほど人間に固有な問いもなかなかないであろう。ハイデッガーは後年、「存在の牧人」としての人間について語っていたけれども、そこで彼が言いたかったのは何よりもまず、人間の人間性が最も際立ってくるのは、存在者の存在を、すなわち、あるものがあるということそのものを問う時に他ならないということであった。
 
 
 このような立場に対してはたとえば、「人間が存在の問いを問うというのは、単に脳がそのような問いを問う地点にまで発達したからにすぎないのではないか」という疑問が浮かぶということもあるかもしれない。
 
 
 しかし、存在の問いを問うことがもしも重要なことであるならば、脳の発達という一事実は、そのことの重要性をいささかも損なうことはないと思われる。脳の発達は、この根底的に重要な局面が生起してくるための一つの条件にすぎない。見落とすことができないのはむしろ、そうした一条件をも通過しつつ、人間がこの世界の中で唯一の問う存在として、まさしく存在の問いを問うているというそのことの方である。
 
 
 
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 逆に、もしも存在の問いを問うことがいささかも重要ではないのだとすれば、その時にはこの問いを問うことは、何か哀れむべき、はかないことであるということになるのかもしれない。ホモ・サピエンス(「知恵アル人間」)は脳の発達の結果、自分自身が存在していることの意味を、さらには世界そのものが存在していることの意味を問う地点にまで到達した。しかしそれはさしずめ、ただあるようにあるだけのこの宇宙の中での一つのアクシデントのようなものであり、存在するものは理由も根拠もなく、そして、意味もなく、ただ存在するだけなのであるということになるのかもしれない。
 
 
 しかし思うに、やはり人間にとっては、存在の問いを問うことが重要ではないということはありえないはずなのである。もしもこの問いに答えが与えられることがあるのだとすれば、その時には、われわれが人生の中で立てるすべての問いにも答えが与えられることになるのではないか。また逆に、もしもこの問いに答えが与えられることはないのだとすれば、その時には、われわれの生そのものが一つの謎であるということに、もっと言えば、一つの無意味であるということにすらなってしまいかねないのではないか。
 
 
 なぜ世界は存在するのか。この問いを問うことは、人間の人間性をその根底において生きることであるような、そうした行為の中の行為であるはずなのである。はじめて問いを明確に定式化したのはライプニッツであるにしても、哲学の営みはある意味ではその始原からこの存在の問いをこそ問い続けてきたといっても、それほど的外れであるということにはならないのではないかと思われる。