イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

貧者と病人

 
 反出生主義が提起する問題に部分的な共感を覚えつつ筆者が提出したいのは、次のようなテーゼです。
 

 悲惨の存在テーゼ:
 1.この世には、耐えがたいほどの苦しみが存在する。
 2.しかし、その程度には人ごとに、決して小さくない違いがある。
 

 1の側面に正面から向き合っているということは、反出生主義にまつわる議論のうちでも、きわめて重要な部分なのではないかと思われます。なぜなら、人間には、見たくないものには目をつぶるという抗いがたい傾向が備わっているからです。
 

 身近な人さえ、住んでいる地域さえ、自分の国さえ平和であれば後はどうでもよいとばかりに自らの幸福(あるいは、快適さ)に閉じこもってしまう性質は、おそらく人間が誰しも持っているものなのではないかと思われますが、1のテーゼは、そのような閉じこもりに異を唱えつづけます。1のテーゼが注意を喚起しているのは、「本当は、この世が何事もなく平和であったことなど一度もない」という、当たり前ではあっても忘れがちな事実です。
 

 しかし、筆者には、2のテーゼも1と同じくらい重要なのではないかと思われます。それは、誰しもが多かれ少なかれ苦しみを背負っていることは確かであるとはいえ、この世には、まぎれもない本物の悲惨と呼びうるものも存在しているからです。
 
 
 
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 この悲惨は物質的なものでも精神的なものでもありえます。また、そこには無視できない多様性もあることでしょう。けれども、何とかやっていけている人と悲惨のうちにある人のあいだに理念上の区別を設けることが、実際上の区別をつけることはしばしば困難であるとはいえ、やはり必要なのではないでしょうか。
 
 
 貧者と病人は、いつでもわたしのすぐ近くにいる。わたしはその傍らを満足しながら通りすぎ、その悲惨に気づかない。日常が歌いあげられ、小さな幸福が味わわれるただ中で、わたしが隣人の絶望のうめきに耳を傾けることは決してない……。
 

 私たち自身に内在しているこの残酷さは、たとえ忘れずにいようと願ったとしても、執拗に私たちのもとに回帰してきます。この残酷さを注視しつづけようとする態度と共鳴しうるという意味では、「存在することは害である」という反出生主義者のテーゼのうちには無視できないものがあるように思われます。