イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

反出生主義の根底にあるもの

 
 今回の探求も、そろそろ終わりにさしかかりつつあるようです。
 
 
 論点:わたしの存在の与えと「この人間」の与えとは、理念においては区別できるとしても、現実においてはひとつながりの与えとして与えられるのではないだろうか。
 
 
 問題を整理してみましょう。「わたしとは何か」という問いについては、次の二つの与えについて考えてみる必要があります。
 
 
 1. 意識の与え、あるいは、わたしの存在の与え。
 2. 「この人間」の与え。
 
 
 すでに何度か論じたように、絶対に確実なものとしてその確かさを否定することができないのは、1の与えの方のみです。わたしは、考えるわたしが存在しないと考えるならば必然的に不合理に陥るほかありませんが、わたしが特定の「この人間」(ex.このブログの筆者であるならば、philo1985という人間)であるということの方は、事によると偽りである可能性がないとは言い切れません。
 
  
 しかし、このような偽りの可能性は理論的には捨て切れないとはいえ、わたしが特定の「この人間」であるということは、おそらくはほぼ確実に、否定できない事実でしょう。ここでは、与えの確かさはコギトの直覚を介した絶対確実性に依拠する確かさではなく、いわば事実性による確かさであり、この確かさは、絶対的な仕方で保証もされないけれども、否定しがたい重みをもって私たちにその与えを受け入れるように促しているといえます。
 
 
 したがって、ひとつながりになっているこの二つの与えの重なり合いによって、わたしはやはり「わたしは他の誰でもない『この人間』である」と言わざるをえないということになるのではないか。ここまで来ると、わたしは、もはやわたし自身を純粋意識として思い描くことは不可能にならざるをえないように思われます。
 
 
 
 わたし 存在 ブログ philo1985 絶対確実性 コギト 純粋意識 グノーシス 反出生主義
 
 
 
 ここでは、詳細に立ち入って論じることはしませんが、古代のグノーシス思想や、現代の反出生主義といった種々の厭世的思想の根底には、事実性の与え、すなわちわたしが「この人間」であることの否認あるいは拒絶というモメントが横たわっているのではないかと思われます。このような思想を抱く人々は、意識しているにせよ無意識においてであるにせよ、一方では純粋意識の至高性に憧れを抱きつつ、他方では自らが血と肉を備えた一人の人間であることを憎んでいるのではないだろうか。
 
 
 動物は、たとえ苦しむことがあるとしても、絶望することはない。絶望するということは、至高性の直観を持たない存在にはおよそ不可能なのではないだろうか。たとえ朧げなものではあるとしても、人間の抱く至福に対する微かな予感こそが、その同じ人間を精神性の地獄へと突き落とすのではないか。
 
 
 上のような見立てはまだ暫定的なものにすぎませんが、それでも一度検討してみるだけの価値はあるのではないかと思われます。いずれにせよ、自我論と人間論の観点からする反出生主義思想の構造の解明は、この時代の哲学に課せられた重要な務めの一つであることは間違いなさそうです。