イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

反出生主義に関する二つのテーゼ:ハイデッガーとアガンベンを通して考える

 
 問題提起:
 後期ハイデッガーの「存在から見捨てられていること」やジョルジョ・アガンベンの「ホモ・サケル」といった概念は、反出生主義の問題を考える上でも有効な手がかりを与えてくれるものなのではないだろうか。
 
 
 私たちの時代のグローバル秩序は、「生政治」とでも呼びうるような秩序創設と維持のあり方を、ますます加速化させつつある。そのこととも密接に連関して、現代の人間は、自分自身の「生きることそのもの」がさまざまな仕方で超巨視的でビッグ・データ的な秩序のうちへとただちに接続され、この接続から決して離れることなく生が営まれるようになってゆくという、かつてない歴史的変転のプロセスのただ中を生きているのである(この点については、10月14日付の記事「例外状態の政治哲学」において論じたので、関心のある方はそちらも参照されたい)。
 
 
 こうした状況の中でジョルジョ・アガンベンによって提起された「ホモ・サケル(聖ナル人間)」の概念は、前回の記事で見たように、おそらくは狭い意味での政治の枠をはるかに超えた広がりの中で受け取り直されるべきものである。
 
 
 『存在と時間』の議論に依拠しつつ、次のように言うこともできるだろう。私たちは、実存カテゴリーとしての〈ひと〉を生きることのうちで、公共性の次元に絶え間なく接続し、コミットし続けている。しかし、そのことによって私たちは同時に、公共性にコミットすることのできない「締め出された生」の次元をも、少なくとも潜在的な仕方では常に生きることにならざるをえない。ホモ・サケルとは、公共性の次元の存続に必然的に伴う「排除された剥き出しの生」を、自分自身が生きているのか、死んでいるのか、人間であるのか人間以前であるのかも分からない、殺害可能で犠牲化不可能な生を生きざるをえない、現代の人間の不可分な生の片割れに他ならない。そして、現代の人間がこのような「生から見捨てられていること」の次元に避けようもなく巻き込まれているという事実のうちにこそ、反出生主義のような問題がこの時代の人間にとって、まさしく運命的と言わざるをえないような関心を向けずにはいられないものとなっている、その必然性が存していると言えるのではないだろうか。
 
 
 
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 「私たちは、この世界に生まれてくるべきではなかったのではないか。」現代の人間はこのような問いかけに対して、おそらくは前の時代にもまして無関心ではなくなってきている。反出生主義の問いかけがある種の歴史的な普遍性を持つものであることは確かであるが、それにも関わらず、他でもないこの問いかけが私たち自身の現存在に不可避的に関わってきているという事実の方は、その言葉の深い意味において歴史的な事象に属すると言わざるをえない。そして、反出生主義の問題をめぐるこのような歴史的状況は、私たち現代の人間が「自分自身の生から締め出されていること」のうちで、「わたしは〈世界〉とか〈存在〉とか、そうしたこと全てにもうこれ以上巻き込まれたくない」という叫びを、自分自身にとって無縁なものとはもはや感じなくなってきているという事情に、おそらくは深い仕方で連関しているに違いない。
 
 
 このブログの筆者が反出生主義の問題に関して提起したいテーゼは、次の二つである。
 
 
 反出生主義に関する二つのテーゼ:
 ① 反出生主義の問題は、〈ある〉こと、あるいは〈生きること〉それ自体が悪あるいは災厄に反転してしまうという意味において、究極的には存在問題に帰着してゆく一問題である。従って、根源的な問いかけを行うことをためらうことのない実存論的・存在論的な探求によるのでなければ、この問題を十全な仕方で解明することはできないであろう。
 ② 反出生主義の問いかけは、「生から見捨てられていること」、あるいは「生が、生それ自体から締め出されていること」という、現代の人間が直面している歴史的な状況との密接な連関において捉えられるのでなければならない。「私たちは生まれてくるべきではなかったのではないか」という問いかけに向き合うことは、思索のうちで、現代という時代そのものに根底的な仕方で向き合うことを要求する。
 
 
 いずれにせよ確かであるのは、反出生主義の問題は現代の哲学にとって、周辺的な一問題ではありえないということなのではないかと思われる。この点からすれば、「生きることを取り戻す」を主要なモチーフの一つとして『存在と時間』にアプローチしている今の私たちの探求も、この問題に無縁なものではありえないことは明らかである。反出生主義が提起する問題については、ハイデッガーレヴィナスのテクストの読解を通して「存在の超絶」の理念を練り上げるための準備を整えようとしている私たちの探求のさまざまな機会において、これからも折に触れて論じることになるだろう。以上のことを確認した上で、私たちとしては2021年の探求の締めくくりとして、「『死への先駆』はどこから身を引き離し、どこへと向かってゆくのか」という、今年最後の問いの方へと向かってゆくこととしたい。