イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

デカルト対トマス・アクィナス

 
 問題の根幹には、わたしなるものをめぐる二つの考え方の相克が横たわっているように思われます。
 
 
 わたしをめぐる二つの見解
 ①デカルト的自己観: わたしとは、純粋意識である。
 ②トマス的自己観: わたしとは人間であり、その限りで、この世においてはわたしの身体から分離する事ができない。
 
 
 まず最初に確認しておきたいのは、言うまでもなく、当のデカルト自身は心身の合一について論じていないわけではないので、上記の呼称は、あくまでも議論の上での便宜的なものに過ぎないということです。もっとも、デカルトの「思惟実体」に対するトマス・アクィナスの「複合実体」という構図で見てみると、この対比には哲学史的な根拠が全くないわけでもなさそうですが……(cf.アリストテレスが提起して以来、「実体とは何か?」という問いほど多様かつ興味深い解答を生み出した問いは他にない)。
 
 
 ともあれ、本題に戻ります。わたしが、わたしとは一つの純粋意識であると考えるとき、わたしはある意味では自分のことを人間ではないものとして捉えています。いわば、本来は人間ではないこともありうるわたしが、今はたまたま「この人間」であることになっている、というわけです。
 
 
 このような見方は突拍子もないものに見えて、実は極めて数多くのフィクションにおいて前提されています。死んだと思った主人公がもう一度過去に飛ばされる無限ループ型のフィクション(当ブログでも一度、ボーカロイド曲『カゲロウデイズ』を分析した)や、わたしとあの人の心と体が入れ替わるといった筋書きのフィクションは、それこそ現代においては枚挙に暇がありません。
 
 
 
デカルト アリストテレス 思惟実体 トマス・アクィナス フィクション
 
 
 デカルト的自己観の帰結:
 わたしとは、「この人間」ではない。
 
 
 たとえば、筆者自身の例に適用するならば、筆者はあくまでも一つの純粋意識であり、その筆者がphilo1985という人間であるのは、ある意味では、今たまたまそうであるに過ぎないということになります。
 
 
 1985年7月に東京に生まれ、哲学を学び、うだつの上がらないブログを書き続け……といったさまざまな人生の細部は、純粋意識としてのわたしには本質的なものではないと考えることもできます。ある朝、目覚めてみると今のphilo1985とは全然別の人間になっていたということも、想像の上では考えることもできなくはないからです(実際、そのような設定を持つフィクションは少なくない)。
 
 
 デカルト的自己観に立つかぎり、「この人間であること」はわたしにとって本質的なことではありません。その限りでは、この自己観に従うならば「わたしはphilo1985ではない」と言明することさえもできなくはなさそうです。
 
 
 わたしは「この人間」ではない。このような自己観からは、哲学的にも実践的にも、非常に興味深い帰結が導かれることになりそうです。ハードな反フィクション論の検討においても、このあたりの事情が大きく関係してくることは避けられないように思われます。