イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「コギトの無力」と、デカルトの道行きをたどり直すことの不可能性から生じる困難について

 
 論点「コギトの無力」:
 一切の信じることを停止させるとするならば、ひとは「コギト・エルゴ・スム」からは一歩も先に進むことはできない。
 
 
 懐疑するとは、ふだん無意識のうちに信じていることをも含めて、一切の信じることを停止することである。確かに、たとえそのような停止を遂行するとしても「コギト・エルゴ・スム」、すなわち、考えるわたしが存在するという一点だけは絶対に疑うことができない。
 
 
 しかし、すでに論じてきたような、悪霊がわたしを欺くという可能性(繰り返しにはなってしまうが、ここでは意識の所与が転覆されるという可能性一般を考えているのであって、悪霊というのはあくまでも比喩のようなものにすぎない)を考えるならば、わたしは「コギト・エルゴ・スム」から先に進むことはできないのではないだろうか。
 
 
 たとえば、「わたしはphilo1985である」、すなわち、省察するわたしが一人の実存する人間であるということも、悪霊による欺きを考えるならば、絶対に疑いえないことであるとは言えない。わたしはphilo1985ではなく、philo1985であるという夢を見ている別の誰か、あるいは何かかもしれないからである。
 
 
 同様に「この現実」、つまり、わたしが今この部屋に存在しているといった事実をも含めたすべての「事実」(より正確には、事実と思われるもの)もまた、絶対に疑いえないというわけではない。やはり、「考えるわたし」を発見したとしても、そのことによってそれ以外の「絶対に疑いえないもの」の存在が次々に論証されてゆくということは、起こりえないのである。
 
 
 
コギト・エルゴ・スム 悪霊 デカルト 神の存在証明 省察 懐疑
 
 
 
 悪霊による欺きというのはそれほどに強力な可能性なのであって、この懐疑は、一切の「受け入れるほかないように見えるもの」を否定してしまう。そのため、デカルト以降の哲学者たちはみな、たとえ懐疑することに何らかの価値を認めるとしても、悪霊による欺きのような可能性についてはほとんど考えてこなかった。すなわち、デカルトの『省察』に意義を認めることはしても、「この上なく有能で狡猾な霊」による欺きをめぐる議論についてはいわば、なかったことにしてきたのである。
 
 
 それでは、当のデカルト自身がたどった道筋はどうであったのかといえば、デカルトにとっては、コギトの発見に続いて神の存在証明へと進んでゆくことが、絶対に必要であった。コギトを発見する「第二省察」に続く「第三省察」は、このことの論証に当てられている。そして、「第四省察」以降の省察は、「第三省察」によって証明されたとされている神の存在を前提した上でなければ決して成り立たないという構造になっているのである。
 
 
 神が存在するかどうかは別にするとして、現代の人間のうちで、神の存在を理性のみによって証明することができると考える人はいないであろう(cf. 哲学史においては、カントがあらゆる種類の神の存在証明に対してその不可能性を宣告したことは、よく知られている)。この省察においても従って、その証明の可能性/不可能性についてこれ以上考察することはせず、神について、その存在を証明することが不可能であることは自明の事実であるということとしたいが、そうなると、今度は別の問題がふたたび回帰してくる。すなわち、すでにくり返し論じてきたように、懐疑を徹底的なものたらしめる限り、思惟は「考えるわたし」の存在から一歩も進むことができないという問題であって、私たちは、この問題をさらに掘り下げて考えてみなければならない。