イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「コギト・エルゴ・スム」から、存在の超絶へ

 
 論点:
 「コギト・エルゴ・スム」は、省察において真理を見出すための確固不動の一点たりうるのか?
 
 
 再び、デカルトがたどり着いた認識をここで取り上げ直しつつ、省察を先に進めることにしよう。ただし、この論点はあまりにもよく知られたものであるため、簡潔に要約することを諒とされたい。
 
 
 何をどう疑ったとしても絶対に疑うことのできない真理として「わたしはある、わたしは存在する」があることを、デカルトは「発見」した。この論点を取り上げたのは歴史上、必ずしもデカルトが初めてであるというわけではないが、懐疑の果てに見出される、前提なしの絶対的真理という仕方でそれを際立たせたという意味では、彼にはやはり、決して消えることのない功績が帰せられるべきであることは間違いないものと思われる。
 
 
 ここで見出される「わたしなるものの存在」は、これまでに論じてきたような、悪霊による欺きの可能性に対してすらも絶対的なものとして守られるという論点が、ここでは重要である。すなわち、もしも狡猾な霊がわたしを悪意をもって欺き、たとえばわたしを「今は2021年3月である」「わたしはphilo1985という一人の実存する人間である」その他もろもろの「妄念」をもってわたしを騙しているとしても、「今この瞬間に、そのように疑ってみているわたし自身が存在する」ことだけは否定のしようがない。疑い、考えているという事実そのものによって、「考えるわたし」はすでに取り消しようのない仕方で存在してしまっているのである。悪霊が、本当は存在しないわたしを騙して「わたしは存在する」と思いこませているというのは、明らかにナンセンスであろう。
 
 
 
コギト・エルゴ・スム デカルト 第二省察 悪霊 存在の超絶
 
 
 
 「欺くならば、力の限り欺くがよい。」第二省察の中で言われるデカルトのこの言葉は、哲学の歴史の中でも一つの画期をしるしづける名文であるといえる。デカルトが到達した哲学的直観を最も深い仕方で言い表す一文を選ぶとするならばこの一文をもってしてもよいのではないかと、個人的には思う。
 
 
 しかし、この「コギト・エルゴ・スム」は本当に、デカルトがそう考えたような「確固不動の一点」なのだろうか。すなわち、その一点に基づいて絶対に疑うことのできない真理が他にも次々と発見されてゆくような出発点でありうるのだろうか。
 
 
 むしろ、悪霊のような存在を想定しながら懐疑を続けるとすれば、絶対に疑うことのできない真理としては、「考えるわたしが存在する」という一点からはほとんど先に進むことができないというのが、事の真相なのではないだろうか。ものの存在も、「今この部屋にいること」をはじめとする「この現実」の重みも、この世界の存在すらもが疑いうるものとしてとどまり続け、証明できないものであり続けるとすれば……。
 
 
 この省察においてはこの後にもデカルトには言及することにはなるが、彼と思考の歩みを共にできるのはこの地点までである。私たちは、デカルトとは異なる仕方で「絶対に疑うことのできないもの」への通路を探ることになるだろう。筆者の見立てによれば、省察を経ることによって私たちは、筆者がこれまで「存在の超絶」と呼び続けてきた理念に最終的にはたどり着くことになるはずである。