引き続き、「コギト・エルゴ・スム」の掘り下げにいそしむことにします。
純粋意識としてのコギト:
「コギト・エルゴ・スム」において見出される「わたし」とは、少なくともその最初のモメントにおいては、「この人間」としての「わたし」ではない。
すべての物事を疑うことができてもこれだけは疑うことのできないものとして、わたしは存在する。しかし、当のデカルトも急いで付け加えているように、哲学者としては、この「わたし」なるものが何かという論点に注意を払わないわけにはゆきません。
読者の方々と同様、このブログを書いている筆者にとっても、考えている「このわたし」の存在を疑うことはできません。しかし、筆者がはたして本当にphilo1985という人間かどうかという点になると、そこには疑いを差し挟むことが可能です。
筆者は、ブログの記事を書いている夢を見ている別の人間かもしれません。自分としては意識もはっきりしているので、その可能性は限りなくゼロに近いであろうと予想を立てることはできますが、絶対の確実性をもって断言することはできません。
デカルトが徹底していたのは、この懐疑を極限まで推し進めてみたことでした。彼の懐疑は、ある意味では極めて中二病的な色彩が濃いものであるということができますが、彼は、もはや誰にも中二病とは呼ばせないところにまで疑いを突き詰めた結果、その果てに近代哲学の扉を開くことになったといえます。ここでも、彼にならってある種の懐疑を展開してみることにします。
デカルト的想定:
何か、ある悪霊のようなものがわたしを騙そうとして、わたしのことをphilo1985という人間であると思いこませようとしているとしたらどうだろうか。
ここでは悪霊という古典的表現を踏襲していますが、人類の脳を電極につないで管理しているAIでも、悪魔的な人体実験を試みている科学者の集団でも、その他の表現でも議論の上に支障はありません。要するに、わたしの意識をなんらかの仕方でコントロールしている悪意ある存在がいるとしたらどうだろうか、ということです。
その場合、筆者は本当はphilo1985という人間ではないにも関わらず、何者かの悪意によってphilo1985であると思い込まされていることになるわけです。このような想定は、意味のない、恣意的なものであるように見えて、実は哲学的に見てきわめて重要な論点に気づかせてくれるものであるといえるのではないか。
次回はこの点をさらに掘り下げてみることにしますが、四百年も前の哲学者の議論をここで辿り直しているということには、やはり何らかの感慨を覚えずにはいられません。哲学の歴史とは単純な進歩の歴史ではありえないというのは、おそらくは哲学史の初歩の初歩に属する事柄ですが、筆者の見立てでは、この「コギト・エルゴ・スム」からは今もなお少なからぬ成果を引き出せるのではないかと思われます。