イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「他の誰でもない、この人間であること」

 
 わたしの「人間性」:
 わたしが「この人間」であることの真理性は、絶対確実性ではなく事実性のオーダーに属する。
 
 
 すでに見たように、わたしにとって、わたしが存在することは絶対に疑うことのできない真理です(「コギト・エルゴ・スム」)。これに対して、わたしが他の誰でもない「この人間」であることの方は「疑うことはできるけれども、事実としてはそうなっている」というしかたでわたしに告げ知らされていると言えるのではないか。
 
 
 望むと望まざるとに関わらず、わたしは「この人間であること」から逃れることはできません。わたしはいわば、「この人間として存在する」という務めをどこかから与えられているのであって、わたしには、「この人間」の目を通してものを見、「この人間」の喉を通して語ることしかできません。
 
 
 ひょっとすると、自殺は、わたしが「この人間であること」から解放される唯一の手段であると言えるのかもしれません。
 
 
 しかし、たとえ仮にそうであるとしても、わたしはその自殺を「他の誰でもない、このわたしの自殺」として遂行しなければならない。従って、少なくともこの世においては、すべての人間がそれぞれの「この人間」として存在するという務めを負わされていると言わざるをえないように思われます。哲学的思考はかくして、力能の行使によって果たされるあらゆる務めの奥底に、存在するという、もはや行為と呼ぶことのできない根源的な務めを発見することになります。
 
 
 
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 わたしは、なんと惨めな人間なのだろう。わたしは病に苦しみ、死に怯え、絶望のうちに呻く。この世からは疎まれ、隣人と愛し合うこともなく、ただ生き延びるためだけに生きている。
 
 
 わたしがたとえそのような状況のうちに生きているとしても、わたしには「この人間であること」から逃れることはできません。その意味では、人生には、残酷であるという言葉が事実であるということの単なる言い換えなのではないかと思われるような時がやって来ることもあるかもしれません。
 
 
 哲学には、愛されていない人間を愛し、苦しむ人間の呻きを聞き取ることはできません。それはおそらく、彼あるいは彼女の隣人たちと、本当の宗教者の務めなのではないかと筆者には思われます。
 
 
 哲学がなすべきことはただ、あるものをあると言い、あらぬものをあらぬと語ることだけなのかもしれません。ただし、本物の自由と救いは真理に基づくものでしかありえないことを考えるならば、哲学になしうることも小さくないと言うこともできなくはなさそうです。